■節子への挽歌2562:悲しさを吐露する距離
節子
昨日から新潟に来ています。
新潟で新しいネットワークを立ち上げる活動の一環ですが、1日早く来て、新潟水俣病資料館の塚田さんに会いに行きました。
塚田さんとは4年ほど前に資料館を訪ねた時に、とても感銘を受け、もう一度お会いしたいと思っていたのです。
今回もとても共感できるお話をたくさんお聞きできました。
様々なところで、こうした地道な活動が行われているのです。
帰り際に、塚田さんがポツリと娘さんのことを話し出しました。
昨年、がんでなくされたのだそうです。
一時は職場復帰もされたそうですが、とても見事な生き方だったようです。
突然の話だったので、私も少し気が動転して、頭にきちんと残っていないのですが、最後に塚田さんが「すごい娘だったと今は思っています」と言った言葉は鮮明に覚えています。
改めて塚田さんのお人柄に触れた気がします。
悲しさは、やはりだれかにいうのがいい。
でもなかなか近くの人には言えないものです。
塚田さんが私に話してくれたことの意味がよくわかります。
話してもいい人は、わかるものなのです。
またいつか塚田さんに会いに来たくなりました。
資料館の前に広がる福島潟は、心を癒してくれました。
その福島潟が見える資料館の2階のデッキで、塚田さんが話してくれたのです。
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