■節子への挽歌2586:流された生き方から抜け出そう
節子
最近、「よりよく生きる」ということからかなり身を離して生きているような気がします。
うまく表現できないのですが、与えられた生をただ受け入れているといったような気分なのです。
考えようによっては、「流された生き方」です。
積極的に何かやることを探すまでもなく、厄介な話も含めて、いろいろと課題がやってきます。
だからといって、それに生活を制約されるわけでもありません。
気が乗らなければ伸ばしてもだれも苦情を言ってきません。
果たすべき時期がひと月も伸びてしまっていると罪の意識を感じますが、だからと言って、無理をすることはありません。
すべては、気が向いた時、という生き方です。
「よりよく生きる」という思いがない、実に意味のない生き方になっています。
時々、お天道様に申し訳ないと思いますが、お天道様に怒られるようなことだけはしていません。たぶん。
こういう生き方をしていると、たくさんのことに気づきます。
ともかくみんな忙しいのです。
忙しいだけではありません。
何か大事なことを忘れて、生きているように思えてなりません。
こんなことをいうと失礼ですが、みんな、私とは違う世界に生きているように思えます。
生きる上で、大切にしていることが、どうも私とは違うのです。
その違いが、あまりに大きくて、私自身も説明できないのですが、時にさびしくなることもあります。
フェイスブックで、このブログの時評編を時々、紹介させてもらっていますが、それに対するコメントを読むと、私の言いたいこととは無縁の受け止めが多いのです。
たぶん世界が違うのです。
もちろん、すべての人がという意味ではありません。
事実、今月も私と同じ世界を生きていると感じた人に複数出会えています。
「よりよく生きる」とは何かが問題ですが、時には「生きる」とは何なのだろうかということを立ち止まって考えることも大切かもしれません。
私の場合、立ち止まりがいささか長すぎたかもしれません。
そのせいか、「よりよく生きる」ことさえも、興味をなくしてしまいました。
「よりよく生きる」ことを捨てることこそが、「よりよく生きる」ことかもしれません。
「流された生き方」ではなく、「よりよく生きる」ことを捨てるほどに「よく生きよう」と、最近、思い出しています。
いまはまだ、流されがちですが、もっと無心に、もっと素直に、ありのままの自分を、生きたいものです。
節子に対して、そうであったように。
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