■節子への挽歌2560:日常生活のなかでの命日
節子
節子がいなくなってから2560日目、8回目の命日です。
といっても、今年は特に法事は用意していないので、私が般若心経をあげ、できるだけ位牌のそばで怠惰に過ごすというだけの話です。
しかし、もうまる7年も経つのかと思うと、不思議な気分です。
あっという間の7年という感じです。
まあ人生そのものが、「あっという間」の出来事なのかもしれません。
8年目にもなると命日意識も薄れ、気がついてみたら、花もあまり用意できていませんでした。
困ったものです。
命日にはこれまでカサブランカは欠かしたことがなかったような気がしますが、今年はカサブランカどころかユリさえありません。
庭の花でもかざろうと思ったのですが、これはという花がありません。
その上、お供え用の果物もみんな食べてしまい、梨くらいしかありません。
畑から野菜を収獲してきて、それでも供えようかと思いましたが、あいにくミニトマトくらいしかなっていないようです。
と言うわけで、今日の節子へのお供えはいかにも日常的です。
何もない命日。
でもこれもまたわが家らしくていいでしょう。
何事もポジティブシンキング、というのが節子の好きな生き方でした。
もう少し誠意を持って、命日を迎えてよ、と節子は笑っているかもしれません。
まあ節子にとっては「想定内」のことでしょうが。
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