■節子への挽歌2580:農作業中には雑念は起きません
節子
連日の農作業でいささか疲れましたが、病院に行くよりはたぶん効果はあったでしょう。
しかし身体じゅうがかゆくて仕方がありません。
蚊にさされただけではなく、草にかぶれたのでしょう。
突然やってきて草を刈りだした侵入者に対して、草も防衛策を発動したわけです。
その攻撃は、甘んじて受けなければいけません。
農作業をやっている時には、少なくとも雑念は消えてしまいます。
ともかく無心で草を刈るわけです。
それも篠笹の多いところですので、土中に根切り鎌を入れて根こそぎかりとるのです。
中腰だと疲れるので、地面に足をついて、作業しています。
もちろん衣服は泥だらけ。
草の丈が長い場合は、顔に草が反抗してきます。
雑念ではないのですが、時折、この草は残しておけばよかったと思う時もありますが、そう思う時にはもう切ってしまっています。
生き物にはそれなりに注意していますが、作業をしている時には、あまり気にする余裕はありません。
まだ要領が悪いので、そんな感じです。
もっとも、雑念がないためか、作業が止まらなくなります。
疲れさえ感じなくなるのです。
体力の限界に達したところで、はっと気づいて作業を中止し、地面に腰を下ろして、持参した飲み物を飲みます。
本来、これも手作りのお茶が理想的ですが、ついつい手軽な栄養ドリンクなどを持って行ってしまいます。
これではいかにも農本主義者にふさわしくないのですが、エネルギー補給も兼ねているのです。
もっともエネルギー補給になるかどうかはわかりませんが。
実は、この時が問題です。
空の青さに見とれたり、草の中の生き物に出会ったリすることもありますが、「雑念」がわっと浮かぶことがあります。
なんでこんなことを一人でやっているのだろう、と思うのです。
節子と結婚しなかったら、こんなことは今、していないだろうな、と思うのです。
家庭農園などもなかったでしょう。
その引き込み役の節子は、なぜいないのか。
しかし、そうした雑念も最近は次第になくなってきました。
ただ無為に風に心身を任せることが増えてきました。
農作業の効用が少しですが、わかってきたと言ってもいいでしょう。
休んだ後がまた大変です。
刈った草を燃やすことができれば、土壌も豊かにできるのですが、たき火は禁止なので、袋に詰めてごみとして回収してもらいます。
1日の作業で大きな袋が少なくとも5~6個はできます。
それを少し離れた自宅に届けるだけでも一仕事です。
これだけの労働をしても、作物の出来が悪くて、収穫はゼロなのです。
いや、収穫は本当はとても大きいのかもしれません。
雑念のない時間を過ごせる、それこそが報酬なのかもしれません。
今日は脳作業をやめて、湯島に来ています。
ここにも作業はそれなりにあるのです。
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