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2014/09/18

■司法の社会化

司法改革に関しては、これまで何回もブログで書いてきました。
これは実に悩ましい問題で、私にはまだ整理できていませんが、今の司法改革には違和感があります。

司法は、「法を司る」ところです。
現在の国民主権国家においては、法の役割も見直されるべきですが、法を基準にして問題を調停し、時に人を「裁く」仕組みも根本から見直されるべきだろうと思います。
司法が違憲判決を出しても、行政は言動を変えないという現実が、今の日本にはあります。
だれが司法を統治しているかは明らかです。
冤罪の多さが、それを物語っています。
あるいは水俣病補償がこれほどまでに伸びていることが、それを示しています。
司法改革は、そこを問題にすべきではないかと思います。
単なる手続きの問題ではありません。

国家は、秩序維持のために暴力を独占したといわれます。
暴力の独占には、当然ながら「立法」と「司法」も含まれます。
それでは国家の暴走が抑えられませんので、三権分立が考えだされたわけですが、それは権力内での役割分担の話であって、国民主権国家の「主権者」の視点は希薄です。

そもそも法は何のためにあるのかは難しい問題です。
よく憲法は権力を制限するものだと言われます。
しかし、国民主権国家にあっては、権力は国民に所在します。
立憲主義は、統治者を制限する体制と言われますが、統治者は主権者ではなく、主権を遂行する主権預託者です。
そこがややこしいところです。
しかし、現在の日本の法体系に基本には、国民主権国家というよりも、王権国家の枠組みが底流にあるような気がします。
たとえば、刑法は一般に懲罰の上限を決めています。
日本の法律では、加害者の人権問題が重視されています。
つまり、裁く人への信頼感がないのです。
これは権力の暴走を制限するという法の起源以来のスタイルです。
しかし、これは逆にいかようにも軽い懲罰ですませるということでもありますから、まさに国民の生命と生活を管理する仕組みとしては、好都合のルールでもあります。
飲酒運転で人を殺傷しても、自動車免許は剥奪されません。
私には理解できませんが、そうしては困る人がいるのでしょう。

大切なことは、だれが、何のために、裁くかということです。
フランス革命時のような、人民裁判は大きな危険性を孕んでいますが、だからと言って、権力代行者に任せるのがいいわけでもないでしょう。
それに、そもそも「権力の分立」などは、そう簡単にはできません。

少なくとも、最低限必要なことは、司法の場の透明性の確保です。
それだけで、司法の形は変わるでしょう。
権威づけられた司法の実態を、もっと明らかにしなければいけません。
裁判所のレイアウトから変えなければいけません。
裁判を傍聴した人は実感されているでしょうが、実に威圧的です。

同時に、司法に生活面での常識を導入することです。
権力維持のための司法ではなく、人々が安心して生活できるための司法にしていかねばいけません。
つまり、上からの秩序維持ではなく、みんなが一緒になっての秩序形成の発想です。
それがどういう形になるのか、それを根本から考える司法改革が求められているような気がします。
まさに「司法の社会化」が課題ではないかと思います。

司法の歴史は長いですが、人間社会ができてから、ほとんど変わっていない気がします。
そろそろ根本から考え直してもいいように思います。
かなり暴論のような気もしますが、今の司法界にはどうも違和感があるのです。

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