■節子への挽歌2567:心を開くと軽くなる
節子
衝撃的な911からもう13年がたちました。
個人の思いなど無関係に、時間はあっという間に過ぎます。
時々、思うのですが、私がいなくなったところで、世界は変わりなく続いていくのだろうと思うと、日々の喜怒哀楽など些末なことなのかもしれません。
妻の死は、夫にとっては大事かもしれませんが、世界中で毎日、たくさんの人が同じ体験をしていると思うと不思議な気もします。
しかし、そうしたことは自分で体験してみないと、まったく気付くことはありません。
自分で体験すると、ちょっとした報道でも、その先が見えてきます。
先日、NHKで福島県楢葉町の72時間を放映していました。
たまたま私の知人が登場するというので観たのですが、悲しい内容でした。
楢葉町は原発のすぐ近くで、まだそこでの生活は禁止されています。
昼間は、原発に働きに来る人たちがたくさんいますが、彼らは取材者に向かってほぼ無口で、機械のロボットのように働き場(原発)に向かいます。
その風景は、実に異様です。
しかし、私の心に残ったのは、そうした人たちではありません。
留守になった住民の家に空き巣がはいるため、避難している住民が時々自動車で見回りをしていますが、その人が番組の取材で思わず話し出したことがあります。
その人の奥さんは、原発事故の後、避難生活の疲れで亡くなってしまったのだそうです。
60歳。とても明るく元気な人だったそうです。
彼はしみじみと、原発事故さえなかったら、楽しい老後生活になったのにと語ります。
事故の数日前に、夫婦で年金の手続きに行ったのだそうです。
話しながら、その人は涙をこらえきれませんでしたが、私も同じでした。
そして、その人は言いました。
こんな話はしたことがなかったけれど、ついつい話してしまった、と。
取材者との心の距離感が、ちょうどよかったのでしょう。
でも想いを話せて、心が少し軽くなったのではないかと思います。
悲しみは、誰かが開いてやらなければいけません。
原発は、私には悪魔のような存在に見えます。
にもかかわらず、日本の政府は原発依存から抜け出ようとしていません。
まさに悪魔に魂を売った人たちの政府のような気がします。
その人たちに、この人の悲しみはわからないでしょう。
原発がないと困るなどと言っている人もまた、同罪です。
そういう人には、妻を失ったこの人の思いなど分かるはずもありません。
911で大切な人を失った人たちの悲しみを、私は知る由もありません。
しかし、その悲しさを利用している人たちへの怒りは忘れることができません。
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