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2014/09/15

■地方創生という発想

このままだと896の自治体が消滅しかねないという増田さんの「地方消滅論」が話題になっています。
まさにそれに呼応するように、新たに「地方創生大臣」なるものが「創生」されました。
地方創生戦略も話題になっています。
地方消滅論も地方創生論も、私には同じ発想のように思いますが、そこで議論されている「地方」とはなんでしょうか。
イタリアの「小さな村の物語」のテレビ番組に関して少し書きましたが、そこで取り上げられる小さな村は「地方」なのでしょうか。

日本の高度経済成長を可能にしたのは「地方」の存在でした。
個性豊かな「地域」を「地方」に貶めることから、それは始まりました。
資本経済の外部に存在する農村から労働力を調達し、そのあとは、農村を市場にしていったわけです。
資本経済の成長は外部がなければ実現できないことを、エコノミストの水野和夫さんは指摘しています。
国際経済にとっての外部であった豊かな文化地域の「開発途上国」も、いまや残すところアフリカしかなくなったので、先が見えてきたと水野さんは資本主義の先行きに警告を発しています。
文化は、経済にとっての外部でしょうが、その文化も、今やほとんど資本経済によって市場化されてきていますから、資本主義の終焉は時間の問題かもしれません。

地方創生は、これまで経済化を進めてきた地方を、さらに市場化しようという話だろうと思います。
ですから、私には、増田さんが指摘する地方消滅を加速させるのが地方創生に思えてしまうわけです。

もし経済成長などという不自然なことを考えなければ、イタリアのように「小さな村」は消えることはないでしょう。
インドのラダックの「懐かしい未来」が話題になったことがありますが、その後、ラダックはどうなったのでしょうか。
ブータンはどうなってきているのか。
その教訓を、私たちはもっと学ばなければいけないように思います。

東北の復興は、地方創生なのでしょうか。
農村は工業化された農業の工場になるかもしれませんが、農村ではなくなっていくでしょう。
それが地方創生だとしたら、何か違うのではないかという気がしてなりません。

イタリアの小さな村のような、みんなが支えあって暮らしている村落は、日本ではもう捨てられたのでしょうか。
私自身が、そういう村に住んでいないのに、勝手なことをいうのは気が引けますが、今の地方創生戦略は、どこか大きな違和感があります。
そこには「改革」や「未来」を全くと言っていいほど感じられないのです。

問題は「地方」にあるのではなく、人間を材料にして、膨れ上がっている「中央」にあるような気がします。
パラダイムを変えなければ、いけないのではないかと思えてなりません。

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