■教育改革はどこを目指すのか
今週のNHK朝ドラ「花子とアン」にはいろいろと考えさせられるセリフが多かったです。
NHKが自己反省と自己弁護をしているようなセリフもありましたが、まあ、それは考えすぎでしょう。
戦時中、花子はラジオで兵隊さんがお国のために頑張っているという話をしていました。
そのことを息子に戦死された蓮子から指摘され、悩むのですが、それを知って、幼馴染で学校教師の朝一が、自分も子どもたちに「お国のために頑張れ」と教えてきたことを悔いていると述懐します。
若者を戦場に送り込むうえで、学校の役割は非常に大きかっただろうと、私も思います。
学校教育は、言うまでもなく、ある目的のための手段です。
問題はその「目的」です。
明治の学校教育は、工業化社会に向けての「教育」でした。
戦時中の学校教育は、戦争を勝ち抜くための「教育」でした。
1945年以後の日本の学校教育はなんだったのでしょうか。
「平和の実現」と「個人の尊重」が重要な目的だったように思いますが、残念ながら、そういう方向にはいきませんでした。
この目的は理念的で抽象的すぎて、具体的なカリキュラムにまで展開するのは難しかったからかもしれません。
それに、貧しさの中で、多くの人たちはそれどころではなかったのかもしれません。
そして、ある時期から、ふたたび産業社会の労働力養成機関になったようにも思えます。
教育基本法は2006年に「改正」されました。
ある人は、「私たちのための教育から国家のための教育へ」と向かうための準備だと指摘しましたが、私も同感です。
かくしてまた、「お国のため」の「教育改革」が進められてきているわけです。
私には、「改革」の方向性が真反対を向いているように思います。
いま必要なのは、「お国のための教育」から「幸せのための教育」ではないかと思います。
「お国のための教育」は、「豊かさのための教育」を装いますので、個人の生活の視点があるように見えてしまうのですが、そこでの豊かさの基準は「お金」です。
豊かさも本来、個人によってそれぞれに違うのですが、国家視点から豊かさを議論すると、GDPなどに象徴される金銭経済基準になってしまいます。
しかし、幸せは国家の次元には還元できません。
「国家の豊かさ」という言葉はありますが、「国家の幸せさ」という言葉はありません。
「幸せ」に視点を移すと、必然的に、個人視点にならざるを得ないのです。
もっとも、功利主義者は「最大多数の最大幸福」という言葉を創り出しました。
私にはあまり理解できない概念なのですが、なんとなくわかったような気になってしまう、恐ろしい言葉です。
これに関しては、以前シリーズで書いた「オメラスとヘイルシャムの話」にもつながってきますが、アプローチの方向が間違っていると思います。
「教育改革」にとって大切なのは、社会の方向性です。
「どういう社会を目指すのか」がないと、教育は取り組めないでしょう。
つまり、教育改革とは社会改革なのです。
その肝心のところが議論されない「教育改革」が、いかにも手際よく進められているような不安を感じています。
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