■節子への挽歌2561:新しい年のはじまり
節子
また新しい1年の始まりです。
久しぶりに昨夜は節子が夢に出てきましたが、目が覚めて、奇妙な不安感に襲われました。
具体的な不安ではなく、理由もわからない不安感です。
あんまりよくない新年のはじまりです。
人は、たぶん「だれか」のために生きています。
それが、自分だったり、神だったりすることもあるでしょうが、仮に自分だとしても、それは「もう一人の自分」でしょう。
ともかく「だれか」がいることによって、生きる意味がでてきます。
その「だれか」がいなくなると、それこそ「生き方」がわからなくなります。
混乱してしまうわけです。
改めて、その誰かを「創造」すればいいのですが、それができる人とできない人がいるのでしょう。
私は「できない人」のようです。
宗教に帰依することもできないわけです。
だから、節子がいなくなって以来、「生きる実感」が持てず、したがって「生き方」がわからないのです。
それでも時間は過ぎていきます。
もう8年目に入るわけですが、生きる実感もなく、生きる意味もよくわからないのに、生きつづけています。
こうして生きていることは、不思議な気もしますが、以前と何も変わっていないような気もします。
ただ一緒に喜び悲しむ人がいないだけの話です。
そこで、時々、自分は生きているのだろうかと奇妙な疑問が生じます。
喜びや悲しみは、個人のことのようですが、実は関係性のなかで生まれてくるものです。
だから、それを共にする人がいない喜びや悲しみは、とても不確かではかないのです。
今朝の奇妙な不安感は、そのせいかもしれません。
また道が見えない1年が始まります。
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