« ■「社会から生きた人がいなくなった」サロンの報告 | トップページ | ■節子への挽歌2610:毒杯による尊厳死 »

2014/10/26

■ゆりかもめの座席の恐ろしさ

今日、テレビでゆりかもめの座席の話を知りました。
ゆりかもめでは、足を投げ出して座る人が多く、それに対する苦情が多かったそうですが、座席の形を変えたら、苦情がゼロになったというのです。
どう変えたかというと、座席に傾斜をつけ、足を投げ出しにくくしたのだそうです。
その番組の出演者の一人は、そうした工夫もいいけれど、そもそも電車内で足を投げ出すようなことをしないようにすることが大切だと言っていました。
みなさんはどう考えるでしょうか。

先の記事で社会から人間がいなくなってきたというサロンの報告をしましたが、こういう話は、まさにそのテーマにつながっています。
かつての人間は座席の一部にさせられようとしているわけです。

ファストフード店は座り心地の悪い椅子にすることで、回転率を高めているというのは、有名な話です。
こうした発想は、「アーキテクチャ」による意識管理と言われます。
価値観やルールを個人に教え込むのではなく、個人を無意識のうちに操作できる環境にしていくということです。

社会の秩序を維持していくために、法律や慣習などがありますが、それと並ぶ方法として、アーキテクチャという方法があるのです。
「アーキテクチヤ」、日本では環境管理型権力などと表現されますが、このポイントは、人の行為の可能性を「物理的」に規定してしまうにもかかわらず、本人はその行為を自発的なものと認識するということです。
つまり、規制されているにもかかわらず、そう思っていないと言うわけです。
最近では、アーキテクチャを用いた社会設計が広く展開されています。

考えてみると、恐ろしい話です。
もし、恐ろしいと感じないとしたら、もうすでに人間であることをやめて部品化の道を歩んでいると疑った方がいいでしょう。
たしかに、主体性など放棄すると、実に生きやすくなるのが、現代の日本社会です。
それをだめだとは、私には言えません。
私の周りの、おそらく9割の人は、もうそっちに向かって進んでいますので、引き止める気はありません。
生き方は、人それぞれですから。
長年飼っていたわが家の犬(ちび太)は寝たきりになっても介護され、獣医が驚くほど長生きしましたが、私には彼が幸せだったかどうかは何とも言えません。
しかし、わが家が引き取らなかったら、ちび太は早々と殺処分された可能性が極めて高いのですから、幸せだったとも言えます。

話がそれてしまいましたが、アーキテクチャは必ずしも物理的な環境とは限りません。
テレビで毎日報道されている情報やドラマもまた、私たちの意識を操作管理しています。

ちなみに、今度ゆりかもめに乗ったら、足を投げ出してみたい気もします。
しかし、それもまた結局は意識を管理されていることになります。
まったくもって、生きづらい社会になってしまいました。
地球から生きた人間がいなくなるのは、そう先のことではないのかもしれません。

|

« ■「社会から生きた人がいなくなった」サロンの報告 | トップページ | ■節子への挽歌2610:毒杯による尊厳死 »

社会時評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■ゆりかもめの座席の恐ろしさ:

« ■「社会から生きた人がいなくなった」サロンの報告 | トップページ | ■節子への挽歌2610:毒杯による尊厳死 »