■節子への挽歌2599:老いることや死んでいくことの意味
昨日、文章を引用させてもらった井上芳保さんの「つくられる病」の中に出てきた文章をもう一つ紹介します。
2003年に施行された「健康増進法」という法律の第2条には「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」とある。こうした流れに、井上さんは異議を申し立て、こう語っています。
「国民の責務」として健康が規定されていることになる。
何かおかしくはないか。
健康は人間としてよりよく生きるための権利のはずなのだが、そうではなく義務とされているのだ。
老いることや死んでいくことの意味を、あるいはそもそも人間が生きるとはどのようなことなのかを、我々は近代主義から自由になって再考してみるべきであろう。心から共感します。
昨今の医療のあり方には、大きな違和感があります。
そう思いだしたのは、節子と一緒に病院に通ったことが大きく影響しています。
病院には近寄らないという友人がいますが、私にはそれほどの自信がなく、しかも自分自身のことではなかったこともあって、中途半端な付き合いをしてしまったことを、今は悔いています。
病院にどう接するかは、その人の生きる哲学に深く根ざしています。
いまから思えば、私は中途半端でした。
念のために言えば、病院にかかったことを悔いているのでも、病院を否定しているのでもありません。
私自身の生きる哲学のことを言っているのです。
しかし、節子と死別し、この挽歌を書き続けている中で、私自身、老いることや死んでいくことの意味をそれとなく考えるようになってきました。
そして、それが少しわかってきたような気がします。
一言で言えば、老いることや死んでいくことがあればこそ、いまこの時の意味があるということです。
同時に、老いることも死ぬことも、それ自体に意味がある。
それは人生における重要なプロセスだからです。
そして、周囲の人たちとの関係性を変えてくれることも人生に刺激を与えてくれます。
それにしても、なんで生命は発生したのでしょうか。
考えていくと、そこにまで行ってしまいます。
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