■節子への挽歌2592:重荷をシェアするということ
節子
台風が関東を直撃しそうで、近くでもいろんな動きがあります。
我孫子市でも避難所が設置されました。
わが家は手賀沼のまわりの崖の真ん中なので、上から崩れてくるか、下に崩れるか、いずれの可能性もありますので、ほどほどの緊張感はあります。
風の道にあたっているので、強い南風が来るといささか心配でもあります。
強風の恐ろしさはこれまでも体験しています。
今日は幸いに約束がないので、自宅でのんびりしようと思います。
昨日は少しばたばたしていて、挽歌も書けていませんし、ホームページの更新もできていません。
最近は、いささか重荷を背負いすぎて、へとへとですので、今日はそれらを脇に置いて、思い出さないようにしましょう。
思い出すと、どうしても心身が動いてしまいます。
節子がいなくなってから、一番大変なのは、精神的に重荷をすべて一人で背負い込むことになったことです。
相談者の重荷もありますが、私自身の重荷もあります。
娘たちや友人知人にシェアしてもらえる重荷もありますが、精神的にシェアしてもらうことはなかなか難しいのです。
夫婦がシェアしあうのと、家族がシェアしあうのと、仲間でシェアしあうのとは、何かがどうも違っているようです。
実際のところ、背負い込んだ重荷を節子がシェアしてくれても重荷が軽くなるとは限りません。
ただ重荷を背負う元気が出てきただけです。
重荷を背負っていること知ってもらっているだけでも元気が出ます。
ということは、重荷をシェアするのは2種類あるということかもしれません。
重荷を分かち合うシェアと重荷を背負うエネルギーを支えてくれるシェアです。
節子がいなくなってから、何がなくなっていたのか、少しわかった気がします。
重荷を背負うエネルギーを補給してもらえなくなっているのです。
書き出しとは全く違うことを書いてしまいました。
実は、挽歌を書いていると、いろんな気づきがあります。
気づいたから書いたというものもありますが、ともかくパソコンに何かを書き出すと気づきをもらえることもあるのです。
この挽歌は、そういう意味では節子にシェアしてもらうための仕組みであり、だからこそ続いているのかもしれません。
雨が激しくなってきました。
南風のせいで、外気の温度が高まっているようで、部屋の窓が曇って、外があまり見えなくなってきました。
これから何が起こるのか、何やら不気味でもあり、楽しみでもあります。
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