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2014/10/27

■再論:生きる権利と生きる責任

昨日のテレビ報道の関係か、それに言及した挽歌編へのアクセスが増えているようです。
挽歌編のため、尊厳死に関して、あまり的確な記事にはなっていないので、時評編でも少しだけ書いておこうと思います。

昨日テレビで報道されたのは、脳腫瘍で医師に余命が6か月以内と告知された、29歳の女性が、11月1日に尊厳死することをユーチューブで流した話とスイスにある自殺ほう助を使命とするNPOの話です。
挽歌編に少し内容を書きましたが、自殺に追い込まれることのない社会を目指しての活動をしている私としては、いささか気になる内容です。
こういう番組が自殺者を誘発することが心配です。
報道するほうは、そのあたりをしっかりと踏まえていただきたいと思います。

言葉遣いの問題もあります。
番組では主に「安楽死」とか「自殺ほう助」とかいう言葉が用いられていましたが、いずれも「尊厳死」と表現するだけでイメージは一変します。
自殺ほう助をミッションとするNPOなどという表現は誤解を招きます。
尊厳な生き方を支援するNPOとしてほしいものです。

この種の番組では、いつも「死ぬ権利」「死ぬ自由」ということを言う人がいます。
その発想がそもそも私には受け入れがたいのです。
生きるということは権利ではなく、責任だろうと思うのです。
生まれた時から自立した人間など、一人もいません。
たくさんの人たちに支えられて生きてきたわけですから、自立した後は、生きる責任が発生すると考えるべきでしょう。
それに、人は一人で生きているわけではなく、たくさんの人たちとの支え合いの中で生きています。
無縁社会とか孤立とか、言われますが、それは大いなる勘違いでしかありません。報道による暗示にかかってはいけません。
テレビドラマで、「私が死んでも悲しむ人など一人もいない」という人に向けて、「そんなことはない。誰それが悲しむでしょう」などという場面がありますが、悲しむ人は必ずいます。
もし万一いないとしたら、その人はすでに生きていないだけです。
そういう状況になった時に、必ず悲しむ人がいたはずです。

人は、生きていく責任があるのです。
死ぬ権利という表現に対応させれば、生きる義務がある。
そして周りの人たちには、死なせない義務がある。

尊厳死の話は、そうした次元の話ではありません。
ここでも尊厳「死」と表現するからおかしくなるのだろうと思います。
生きることの尊厳さを守るという意味で、尊厳生というのが私にはぴったりします。
しかし、ここでまた、私の性格の悪さが出てしまうのですが、今の日本では尊厳生を生きている人はほとんどいないように思います。
尊厳死を問題にする前に、まずは今の生き方を変えることにこそ、関心を向けるべきです。
とりわけ報道関係者には、それを期待したいです。
興味本位で、取り上げてほしくありません。
取り上げる以上、しっかりした覚悟を持ってほしいです。

なお、同じようなことを以前も書いているので「再論」としました。
自殺する権利と生きる義務

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