■節子への挽歌2593:「私は生きていていいんでしょうか」
節子
悲しい事件が起こりました。とても悲しい事件が。
今年の7月に起こった佐世保市の高校同級生殺害事件の加害者の父親が自殺したのです。
弁護士の話によれば、父親は事件後、「私は生きていていいんでしょうか」と落ち込むことが多かったそうです。
考えようによっては、この事件は、被害者ばかりで加害者のいない事件です。
そういう被害者だけの事件が、最近多すぎます。
社会の実相を象徴しているようです。
それを助長しているのが、マスコミかもしれません。
時評編ではなく、挽歌編で、このことを書き出したのは、この父親が残した言葉が心に深く残ったからです。
「私は生きていていいんでしょうか」。
こういう思いに出会った人は決して少なくないでしょう。
そして、この人も、誠実に生きていたのでしょう。
同じ状況にあれば、私も同じ問いかけをし、同じ行動をしないとは言い切れません。
だから、心に深く残ったのです。
しかし、私はこの問いにこそ、問題があるように思います。
誠実に生きるのであれば、「私は生きていていなくてはいけないのでしょうか」と問うべきではないかと思います。
問いかけが間違ってしまっている。
もちろん、この父親の行為を非難するつもりは全くありません。
ただ、この人が、問いかけをこう変えていたら、結果は変わっていたのではないかと思うのです。
結果が変わったら、何かが好転するかどうかはわかりません。
私が悲しまなくてすんだだけかもしれません。
でも、できればこう問うてほしかった。
誠実に生きていただろうこの人は、この問いであれば、生きていなければいけないと思ったかもしれない。
人は、生きていなくてはいけないのです。
せっかくの「生」をいただいたのですから。
生は思い切り大切にしなければいけません。
たとえ、生きていることをすべての人から非難されようと、生きていていいし、生きていなければいけないのです。
だから生きることは辛くても価値のあることなのです。
「生き切れなかった」節子から教えてもらったことのひとつです。
自殺した父親も、たぶんそれをわかっていたはずです。
誰かが「問」を変えてやればよかったのです。
だから、私にはとても悲しい事件なのです。
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