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2014/11/06

■節子への挽歌2623:節子に会う前も幸せでした

節子
今日は湯島で少し時間を持て余しています。
時間が許せば、久しぶりに東京国立博物館に行けたのですが、中途半端な空き時間になってしまいました。

私が博物館に通い出したのは、小学4年のころからです。
兄に連れて行ってもらった交通博物館に魅了されて、その後は、同級生を誘って、上野の国立博物館と科学博物館によく行きました。
しかし、次第に足が遠のき、大学時代は特別展でもなければ行かなくなりました。
今はあまり行くことはありません。
それも、少し雰囲気を感じてくるだけです。

時々行くと、今も子供のころを思い出します。
科学博物館は変わってしまいましたが、国立博物館の本館は、今も昔の雰囲気を残しています。
よく通っていたころは、まだ節子とは会う前の小中学校時代ですが、あの頃にはたくさんの夢がありました。
実に懐かしい時代です。
国立博物館の前庭のベンチに座っていると、その当時を思い出します。
当時の社会は、経済的には貧しかったと思いますが、なぜか実にあったかでした。
私の家も、貧しかったですが、私自身は苦労した経験がありません。
今から思えば、大志もなく、実に安直に生きてきてしまった気がします。

そういう私に、生きる意味を与えてくれたのが節子でした。
「生きる意味」とは何かと問われると、答えに窮しますが、自分の人生を素直に生きるということです。
大志や目標はますます縁遠くなってしまいました。
生きることが目的になったのです。
節子に会う前も、私は十分に幸せでした。
しかし、節子に会う前後では、何かが大きく変わってしまったような気がします。
「節子とはいったいなんだったのか」。
最近そんなことを考えることがあります。

節子とも上野の博物館には何回か行ったはずですが、あまり思い出せません。
思い出すのは美術展やコンサートばかりです。
なぜ思い出せないのでしょうか。

近いうちに、また国立博物館に行こうと思います。
薬師寺の聖観音にもお会いできますし。

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