■節子への挽歌2638:気が弱まっているとやさしくなれるのかもしれません
節子
昨日書きましたが、体調があまり良くなく、昨日は小児外科医の松永さんの講演を聴きに行ったのですが、終わった後の話し合いや懇親会に出られず、途中で退席してしまいました。
楽しみにしていたのに、とても残念でした。
松永さんのお話は、感動的というか、心揺さぶられるものがありました。
いのちとは何か、人間の尊厳とは何か。
理屈ではなく、松永さんの実践体験から積み上げられたお話は、心身を揺さぶられるものがありました。
質疑応答の最後に、私の隣の人が手を挙げて発言しました。
その発言が、さらに私の心身を揺さぶりました。
その方は、トリソミー(染色体異常)の子どもを持つ父親でした。
当事者でなければ決して発言できないお話でした。
最近いろいろな当事者と直接話す機会に恵まれてきていますが、そうした人と話していると、知識だけで話している「専門家」の言葉が白々しく感じられるようになってしまいます。
私自身もまた、「白々しい思いの世界」にいることを思い知らされます。
だから当事者のお話を聞くと心身がゆさぶられるのです。
ちなみに、お話された松永さんは「医師」ですが、当事者の世界で生きている医師です。
私が松永さんにほれ込んだのは、こんな人がお医者さんにもいるんだという思いからです。
ところで、終了後、発言した隣の人に話しかけようと思ったのですが、声をかけた途端に、胸がつかえて、声が出ず、代わりに涙が出てしまいました。
隣の人はさぞ驚いたことでしょう。
自分でも驚きました。
後になって気づいたのですが、今回過剰すぎるほどに心身が揺れたのは、私の体調が悪かったからかもしれません。
そう思わないと理解できません。
松永さんのお話は前にもお聞きしていますし、元気な時にお聴きしていたら、感動だけで終わったかもしれません。
隣席の人への声掛けも、もしかしたらしなかったかもしれません。
体調不良で気が弱まっていると、人の感受性は高まるのかもしれません。
そんな気がしました。
そういえば、節子がいなくなってから、ある意味での感受性が高まったことは間違いありません。
人はやはり悲しみを体験しなければいけません。
そしてまた、悲しみを乗り越える必要もないのかもしれません。
悲しみの中にあればこそ、他者の哀しみも感じられます。
そうなれば、自らの幸せもまた、強く感じられるようになるかもしれません。
人は、それぞれにみな哀しく、幸せなのです。
帰りの電車の中で、体調が悪くて途中で帰宅とフェイスブックに書き込みました。
そうしたらいろんな人がエールを送ってくれました。
気が弱まっていると、そうしたエールも素直に受け入れられます。
天邪鬼の私は、いつもはエールを素直には聞けないタイプなのです。
昨夜は8時に就寝、今日は1日、本を読んだりテレビを見たりで過ごしました。
そのおかげで、どうやら元気になりました。
もう大丈夫でしょう。
少しだけ心が不安なのは、きっと寒いせいでしょう。
明日は暖かいといいのですが。
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