■節子への挽歌2635:世の中には悪い人もいるかもしれない
節子
最近、私の考えがもしかしたら間違っているのかもしれないという気がしてきています。
この歳になってそう思いだすのは、かなりつらいものがあります。
私は、この世の中には「悪い人」はいないと考えています。
節子には必ずしも賛成されませんでしたが、少なくとも節子は私のその生き方を否定はしませんでした。
「悪い人」はいませんが、「悪い言動」はあります。
このブログの時評編では、私もまた、時々「悪い発言」をしていますし、これまでの人生において私も「悪い行動」をしたことも少なくないでしょう。
しかし、それにはそれぞれ理由があるわけで、悪い行動をする人も、ほんとはそんなことをやりたくはない、というのが私の考えです。
そういう視点に立てば、悪い言動をする人には同情するべきであって、非難するべきではない、ということになります。
そういう考えだと、時々、周りの人にも迷惑をかけることさえ起きます。
できるだけ迷惑をかけないようにしていますが、時には思ってもいないような迷惑をかけていたことに気づくこともあります。
その迷惑を一番受けたのは、家族です。
もう取り返しがつかないのですが、最近反省させられることが多いのです。
しかし、悪い人はいないと考えて生きることで、得たものや生きやすさもあります。
それは、たぶん節子も味わったのではないかと思います。
迷惑と得たものとのバランスがとれていたかはわかりませんが、良し悪さの評価基準も相対的なものですから、考えてもあまり意味がありません。
ただ、節子が「良い人生」だったと言ってくれたのは、本意だったと思います。
私もまた、いまのところは、とても良い人生でした。
しかし、この歳になって、人生を少し客観的に見えるようになると、いかにも自分勝手で自分本位の生き方をしてきたと思わざるを得ません。
そう思いだすと、心身が重くなってきます。
そんな心境の中で、もしかしたら世の中には「悪い人」もいるのかもしれないと、最近思うようになってきたのです。
具体的にどうだと言う話ではありません。
そう考えると、自分を正当化できるからです。
しかし、正当化したところで何かが変わるわけではありません。
自分が創り出した「まわりの人への迷惑」はなんとか収めようと思うのですが、なかなかうまくいきません。
節子がいなくなってからの私の言動は、やはりバランスを崩してしまっていたようです。
その重さに、いささか打ちひしがれてしまっています。
こころが晴れないのは、まさに自業自得です。
私の反省点は、「良い人」に「悪い言動」をさせてしまったことです。
哀しいですが、やはり家には鍵をかけないといけないのでしょう。
それが私にはなかなかできませんでした。
ちなみに、家の鍵はたとえであって、わが家に泥棒が入ったという意味ではありません。
念のため。はい。
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