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2014/11/22

■節子への挽歌2636:また底なし沼に引きずり込まれそうです

節子
最近、毎日のように不愉快なことがあります。
さして大きなことではなく、実に些末で、節子に話したら笑われそうなことですが、私自身にとっては結構不愉快なことなのです。
身勝手な言動は、たとえどんなに小さくとも、いやなものなのです。
たとえば、言葉だけの人はどうも許せないタイプなのです。
おそらく私自身も、同じようなことをやっているのでしょうが、どうも「自分に甘くて、他者に厳しい」のかもしれません。
しかし、どんどんと人嫌いになっていくのが、いささかやりきれないです。

歳をとるにつれて、寛容さが増す人もいれば、逆の人もいます。
私の場合は、後者かもしれません。
いろんなことが見えてきてしまう結果、小さな事さえ気になるのかもしれません。
これを「偏屈」というのでしょうか。
大らかさが消えてしまえば、残されるのは生きづらい人生です。
これは実に困ったことです。

しかし、もっと本質的な問題は、私自身の世界が固定化していることかもしれません。
世界がどんどん広がっている時には、寛容さが維持できます。
というか、寛容でなければ、その広がりについていけないのです。
そして、その寛容さを楽しめもします。
しかし、世界の広がりが止まりだすと、現状をより良いものにしたいという思いから、細かなことが気になりだすのかもしれません。
どうも最近は、些末なことが気になります。
その結果、なにやら不愉快なことがどんどんと蓄積されていくわけです。

不愉快なことがあるから精神が安定しないのか。
精神が安定しないから、小さなことまで不愉快に感ずるのか。
たぶん後者でしょう。
些末なことを不愉快に感ずるような生き方に、今の私は陥っているようです。
伴侶がいないと、こういう時に助けてくれる人がいないのがつらいです。

どうもまた最近うじうじしだしています。
困ったものです。

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