■節子への挽歌2624:非日常から転じた「ケ」の世界
節子
最近、ケの世界に埋没しているせいか、心身のよどみを感じます。
人にはやはり、ハレの世界が必要のようです。
「ケ」は簡単に言えば「日常」、「ハレ」は「非日常」ですが、柳田國男はこの2つが次第に重なりだしてきているといいました。
たしかに、日常もまた変化のあるものになってきました。
そして、かつてであれば、ハレ時の暮らしが日常化し、暮らしからめりはりが消えつつあります。
ちなみに、ハレにはプラスのハレとマイナスのハレがあります。
非日常という意味では戦争もハレ舞台です。
しかし戦争状態が日常になってしまい、ハレがケに転ずることもあります。
ハレがつづけばケに転じます。
私の場合も、節子との別れという非日常が、日常になってしまい、ハレがケに転じたような気がします。
非日常が日常になれな、なかなか新たなる非日常は得られなくなるのです。
もう30年ほど前になりますが、5人の民俗学者たちが共同でシンポジウムを開催しました。
その報告書はとても興味深いものでした。
桜井徳太郎さんから「ケガレ」という概念が出されたのです。
その時の記録は、「ハレ・ケ・ケガレ」(青土社)という書籍になっています。
ケガレというと一般には「穢れ」「汚れ」を指しますが、私が興味を持ったのは、ケガレとは「ケが枯れる」とい捉え方でした。
ケが枯れる、つまり気が枯れるです。
勝手に解釈すれば、生活には気が必要です。
気をいれておかないと、波風の多い日常生活を乗り切れません。
注意しないと、気が弱まり、枯れてしまいかねない。
そこで、枯渇してしまった気、つまり日常生活を支えるエネルギーを回復するために、「ハレ」の時間が必要になる。
日常を支える非日常が日常を支えているというわけです。
気を取り戻すためには、ただ休めばいいと言うわけではないと言うことです。
極端に言えば、疲れた時には休むより、非日常が効果的というわけです。
節子がいなくなってから、考えてみると、私の生活には、ある意味では「ハレ」がなかったかもしれません。
ですから、私のケ(気)は、もう消尽されつくしているのかもしれません。
気がなくなれば、当然ながら「生命」も消えるでしょう。
となれば、これはあまり誠実な生き方でも、素直な生き方でもありません。
のどが渇けば水を飲むように、気が枯れたら、気をもらわねばなりません。
気をもらうために、ハレの場に行かねばいけません。
ところが、非日常から転じた「ケ」の世界にいると、「ハレ」が見つけられないのです。
困ったものです。
どうしたらいいでしょうか。
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