■蟻のように生きる人生
先日、「人は夢だけでは生きていけない、のか?」ということに関して、ある人から、五木寛之さんの著書「他力」の一節を教えてもらいました。
私はかつて、リュビーモフという著名なユダヤ人演出家に会った際、生きるということは、蟻のように生きることと同じか」と、詰問されたことがあります。同じころ、挽歌編で「他力」を感じさせることを書いていたために、そして五木さんのお名前も出したために、思い出してくださって、紹介してくれたのです。
(中略)
彼は、「五木さんは、蟻のように生きる命にも価値があると思うのですか」と訊いてきたのです。私は、「当然でしょう」と答えました。
人間の中で善と悪が共存しているように、「よく生きること」と「生きて存在すること」もまた、二重螺旋構造の形をとって共存している。
それに対して、人間らしく生きなければ生きる資格がないと一方的に断定するのは、間違っている、
人間の生命は、いかに人間らしく生きるかという方向を志向する本能的な力を持っているのだ、と私は考えています。
廃虚のような世界に孤立している人間にとっては、まず生きて存在することが大事なのではないでしょうか。
私も、この文章に異論があるわけではありません。
ただ、少しだけひっかかるのは、「人間らしく生きなければ生きる資格がない」という表現です。
人間は人間ですから、そもそもその生き方そのものが「人間らしい」はずです。
猿が主語なら「人間らしく生きる」という文章は成り立ちますが、人間が主語では論理的に成り立たないように思います。
人間が主語であれば、「蟻のように生きる」というのは理解できます。
しかし、それは人間の生き方の表層でしかありません。
人間は、常に人間として生きている、つまり「人間らしく」生きているのです。
人間が人間らしく生きるとはトートロジーでしかありません。
もちろん、「人間らしく生きよう」という言葉はよく聞きますが、私はどこかに違和感を持ちます。
文化人類学者たちは、「未開社会」の人たちの生き方をどう捉えていたのでしょうか。
またこのように説法する人の目線はどこにあるのでしょうか。
五木さんは、「人間の生命は、いかに人間らしく生きるかという方向を志向する本能的な力を持っている」と言っています。
では、人間らしく生きるとは何か。
それを「夢を果たす」と言い換えると、こうなります。
「人間の生命は、いかに夢を果たすかという方向を志向する本能的な力を持っている」。
「夢」という言葉に勝手な定義を与えていると指摘されそうですが、モリスに触発された國分さんの言葉を使えば、「バラ」でもいいのです。
「生きる意味」でもいいし、「自己判断力」でもいい。
もっと平たく言えば、「意識」です。
それが機械とは違うことだと思います。
「人は夢だけでは生きていけない、のか?」で言いたかったのは、生きていることは実は誰もが夢に関わっていることだと言うことでした。
生きている、そのことが、夢を持っているのだと言うことです。
それを忘れてはいませんか、というのが、私の問いかけです。
人間は、夢を見る能力、あるいは資質を獲得した。
そして、一人ひとりが表情を持つようになった。
それは一説には今から3500年ほど前だとも言われています。
ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙‐意識の誕生と文明の興亡」には、その仮説が興味深く書かれています。
また、トール・ノーレットランダーシュの「ユーザーイリュージョン」も、わくわくするような本です。
蟻のように生きる人生を生きる人も、間違いなく、夢を持っている。
だからこそ蟻のように働ける、と私は考えています。
しかし、恐ろしいのは、いつの間にか、人間であることを忘れてしまうことにならないかということです。
だからこそ、夢を忘れてはいけません。
人生にはバラが必要なのです。
たとえ絶対他力に身を任せるとしても。
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