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2014/11/05

■コミュニケーションの持続による絆しかないのか

フェイスブックをやっていて感じるのは、今や「自己露出の時代」と言っていいほど、自己の暮らしぶりをさらけ出す文化が広がっていることです。
その一方で、フェイスブックをやっていながら、自らのデータは限られた友だちにしか開示していない人が増えているような気もします。

私がホームページを始めたのは、2002年1月1日です。
完全な手づくりですが、私の生き方に従い、すべてを開示するという方針でした。
最初は双方向で、読者の書き込みや相乗りの仕組みも作りましたが、いろいろとトラブルもあり、やめてしまいましたが、「開かれたコモンズ型」を意図していました。

1989年に、私は生き方を変えました。
25年勤務した会社を辞めました。
その時のことは、当時の雑誌に頼まれて寄稿した記事が残っています。

タイトルは「会社を辞めて社会に入る」で、そこに会社を辞めた時に友人知人に送った手紙の一部を紹介させてもらいました。
こんな文章を書きました。

働くでもなく遊ぶでもなく、学ぶでもなく忘れるでもなく、急ぐでもなくのんびりするでもなく、これから出会ういろいろな世界との関わりの中で、私自身の新しいライフスタイルとこれからの25年間の仕事を発見していくつもりです。

ちなみに、会社を辞めた目的は、転職でも独立でもありません。
その手紙には、「社会への『溶融』を志向しています」と書きました。

そんなわけで、会社を辞めてからの生き方は、すべてを外からも見えるようにしていこうと思ったのです。
そのために、ホームページには、公私を含めて、何でも書き込みました。
あまりに書きすぎて、削除しろというクレームも来ました。
それで私以外の人のことはできるだけ曖昧に書くようにしましたが、基本的には方針は変えていません。

ところが、最近はフェイスブックでの生活の露出が一般的になっています。
食事の内容までがよくアップされます。
私のホームページの比ではありません。
みんな露出症になったようです。

暮らしぶりを公開する意味はなんなのか。
ちょっとわからなくなってきました。
私は、フェイスブック開始2年目からは、内面の思考を中心に書くことにしました。
だから概して長くて小難しい話が多いのです。
人数は少ないですが、それでも読んでくれて、コメントもくれる人がいます。
でも正直に言えば、ほとんど理解されることはありません。
言葉というものは、考えや思いを伝えるには適していないようです。
考えや思いを伝えるには、どうも写真が効果的のようです。
これもフェイスブックで学びました。

しかし、人はなぜ生活を露出するようになったのか。
これは実に興味あることです。
私が、社会とともにあろうと思った26年前とは社会が変質したのです。
おそらく人の生き方も変わってしまった。
社会が壊れてしまい、拠りどころがないのに、仲間もいなくなったのかもしれません。
そして、もしかしたら、自分を開示しておくことが、一番の安心につながるのかもしれません。
ラインでつながっていないと不安になる子どもたちと同じ状況に、多くの大人たちも陥っているのかもしれません。
いまや、生活の露出しかコミュニケーションの契機を持てず、「コミュニケーションの持続による絆」に依存しなければならないほどに、みんな刹那的な生き方になってきているような気がします。
忙しいことを恥じる文化を取り戻さないと、私たちはどんどん物になっていってしまうような気がします。

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