■節子への挽歌2640:「死」と「別れ」
節子
今日はさらに寒い日になりました。
そのうえ、雨です。
せっかく今日から元気になろうと思っていたのに、困ったものです。
寒いと元気が出ません。
また倒れないように、注意しなければいけません。
しかし状況を変えるために湯島に行くことにしました。
わが家は寒いですが、湯島はエアコンがあるので暖かくできます。
家だと暖房施設のない私の書斎(仕事場)ではパソコンをする気にもなれません。
それに今日は、まだ会ったことのない人が湯島にやってくるのです。
どういう人でしょうか。
ところで有名な話ですが、昨日、観た映画「シェーン」に関して、殺し屋との打ち合いでシェーンは死んだという説があります。
これは、最近の、たしか007の映画でも劇中で話題になっていた話です。
「シェーン」のラストは、ジョーイが馬に乗って去っていくシェ-ンに向かって、
「シェーン カムバック」と叫ぶシーンです。
それに応えることなく、シェーンは去っていくのですが、その時にすでにシェーンは死んでいたという説が一時期、広がったのです。
それに関して、いろいろな理由付けがされたのです。
実に平和な時代でした。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という話も有名ですが、諸葛孔明の死はどの時点とすべきでしょうか。
もちろん息を引き取った時点が本人にとっては死でしょうが、ほかの人にとっては、必ずしもそうではありません。
愛する人の死を、いつまでたっても受け入れられない人もいます。
その場合は、たぶん、その人の世界ではまだ死は起こっていないのです。
「別れ」と「死」。
「死」とは必ずしも「別れ」ではないのかもしれません。
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