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2014/11/04

■節子への挽歌2620:余命宣告の罪深さ

節子
余命宣告を受けていた米国の女性が、「尊厳死」を実行しました。
結局、だれも止められなかったわけですが、果たして本当に止めようという働きかけがあったかどうかは疑問です。
世界はすでに大きく変質していることを、改めて実感しました。
世界は、ただ単に「興味」を抱いただけだったのかもしれません。
少なくとも日本のマスメディアの報道からは、そう思わざるを得ません。
私自身は、正直に言えば、目をそらしたい気分でした。

時評編に書きましたが、私にはこの事件は「尊厳死」ではなく、「人間の尊厳性の否定」としか受け止められません。
そして、その背後にあるのは、いのちの私物化であり、人間の事物化です。
私の周りだけではなく世界からどんどん人はいなくなっているのかもしれません。

節子は、息を引き取る1か月ほど前に、もうこれでいいでしょうと紙に書きました。
もう話せなくなっていたのです。
当時、私自身がたぶん正常な判断ができなくなっていて、それに誠実に立ち向かえませんでしたが、それから節子は1か月近く、壮絶な戦いをしてくれました。
その姿を思い出すのがつらくて、どこかで忘れたいという意識があるのですが、忘れることはできません。
あの1か月は、それこそ生きるとは何かを、私たち家族に伝えてくれたように思います。
人のいのちは、個人一人のものではないのです。
節子は、その時、大きないのちを生きていました。

余命宣告を受けて、死を選んだブリタニー・メイナードさんは、29歳でした。
余命宣告の罪深さに憤りを感じます。
神でもあるまいし、中途半端な知識しかない医師に、なぜ神のような余命判断を許しているのか。
医療界にも不信感を持ってしまいます。

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