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2014/11/06

■節子への挽歌2622:病気や健康という言葉の意味が変わりました

節子
冬を思わせる朝でした。
高血圧のための降圧剤を飲むのをやめて2週間がたちました。
いまのところ異常は起きていませんし、むしろ調子がいいくらいです。
一応、毎日血圧を測り、注意はしていますが、もう少し続けようと思います。
ちなみに、久しぶりにグレープジュースを飲みましたが、期待していたほどおいしくはありませんでした。

最近さらに病気観が変わってきました。
これは、実はこの数年、少しずつ意識するようになってきています。
節子がいなくなってから、病気を治すという言葉にどこか引っかかるようになりました。
節子の病気を治せなかったことへのコンプレックスからです。
さらに健康が大事だとか、長生きこそが幸せ、などという言葉にさえ、心がうずくようになってしまいました。
なにか責められているように感ずるのです。
長生きできなかった節子を否定されているような気さえしたのです。
健康とか病気とかいう言葉の意味が一変してしまったのです。

前にも書きましたが、自死遺族の人から「自殺のない社会をめざす」という言葉を聞くと、自死した父親が責められているような気がすると言われたことがあります。
以来、その言葉は使わずに、「自殺に追いやられることのない社会」と表現していますが、その人の気持ちが理解できたのも、節子のおかげです。
人は、自らの体験で、言葉を解釈します。
自らの体験が気持ちを形成していきます。

節子がいたころといなくなってからとでは、私の言葉への感情も大きく変わってしまっているわけです。
人は言葉を通して社会に生きていますので、そのことは人生を大きく変えてしまいます。
最近、ようやくそのことに気づくことができるようになりました。

病気が悪くて、健康が良いとは言い切れないのです。
その違いも、最近は極めてあいまいに感ずるようになってきました。

それでも、風邪だけは引きたくないと思っていますので、まだまだ矛盾しているのですが。

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