■「誰一人まともな人はいない」
イタリアには街中によく「近づいてみれば、誰一人まともな人はいない」という標語の書かれた標識があるらしいです。
自分で確かめたことがないので、今度、イタリアに行く娘に見つけたら写真を撮ってきてもらおうと思っています。
どなたかお持ちであれば、送ってください。
イタリアでは精神病院を廃止しています。
だからこの標識があるのではなく、むしろ逆なのです。
この話は、「健康不安と過剰医療の時代」という本の中で井上芳保さんが紹介してくれているのですが、井上さんはイタリアでの精神病院は医師に関連して、こう書いています。
おかしな部分を持っていて苦悩や危機を生きているのは何も精神病者だけではない。普通の人たち自身だってよく考えてみたら十分におかしいし、まともでないというわけだ。この冷厳なる事実への気づきによる「受苦者の連帯」こそは、近代主義に染め上げられた結果、抑庄的なものとして構築された精神医療を根底から変えるために必要なものであろう。この発想は、ヴァイツゼッカ-の「異なることこそが正常」に繋がっていると思います。
近代は、人の標準形をつくろうとしています。
意識はもちろんですが、姿かたちまでです。
最近では、整形手術によって、みんな同じ顔になってしまってきているような気もします。
前に書いたとおり、それに関してのヴァイツゼッカ-のメッセージも強烈です。
ヴァイツゼッカ-のメッセージを読んで初めて気づいたのが恥ずかしいです。
「誰一人まともな人はいない」という時の「まともな人」とはどういう人でしょうか。
どういう人が「まとも」とされているかで、その社会の実態が見える気がします。
日本では、「まともな人」は、褒め言葉でしょうか。
たぶん褒め言葉でしょうが、イタリアでは「まともでない人」もまた褒め言葉かもしれません。
私見では、「まとも」とは自分を生きている人です。
しかし、工業化社会では、「まともな人」ではないのかもしれません。
つまり、「まともでない人」が「まともな人」なのです。
多様性の大切さが叫ばれていますが、それはそれだけ現実が均質化していることの現れです。
絆やつながり、ささえあい。
そうしたことの前提にあるのは、「異なることこそが正常」の社会です。
「まとも」の定義によっては、絆やつながりや支え合いは、ちょっと不気味なものになるかもしれません。
なにが「まとも」なのかを、きちんと考える必要があるように思います。
「まともに生きているか」と問われたら、「はい」と自信を持って言えるような「まともでない人」になりたいと思っています。
ややこしい話ですみません。
今日もけっこう疲れる1日でした。
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