■節子への挽歌2645:葬儀は誰のものなのか
節子
昨日観た映画の余韻がまだ残っています。
はっとしたやりとりがもう一つあります。
これも主人公の言葉ではありませんが。
ジョンの仕事のやり方に批判的な上司が彼に解雇宣言する時に、こんなことを言うのです。
葬儀は遺された者たちのためのものだから、だれも参列しない葬儀は不要だ、ただ火葬すればいい、と。
葬儀とはいったい誰のものなのか。
葬儀は必要か不要か、という議論が日本でもあります。
そういう議論も、このことに深くつながっています。
私自身は、葬儀は「要不要」の議論の対象ではないと思うようになっています。
それを超えて、自然に行われるものだと思うのです。
そして、それは生前のその人とその周りの人たちとの生き方の問題でもあります。
決めるのは当事者であって、一般論で語るべき問題ではないように思います。
それに、それぞれの葬儀のスタイルもありますから、第三者からなかなか見えないものがあります。
葬儀とはいったい誰のものなのか、という問いも難問です。
死者のためか、遺された者のためか。
私は、これには答えられません。
答はおそらく両者のため、さらにはもっと大きな「いのち」のためとしか言えません。
節子も私も、自分のお墓も葬儀も否定的でした。
しかし、死が見えてきた時に、私たちは2人とも自然にいずれをも、当然のように受け入れました。
そのやり方にはいささかの後悔は残っていますが、たくさんの人に来てもらった葬儀が行われたことは、私も節子もよかったと思っています。
節子がそう思っているのが、なぜわかるのかと言われそうですが、通夜に一人で節子の隣にいた時に、それが伝わってきました。
間違いありません。
ついでに言えば、お墓もまた死者のためでも遺された者のためではありません。
死者と遺された者が共に生きるためのものなのだと、最近は思えるようになっています。
まだ現世と彼岸とがつながっていた昔、お墓のスタイルが生まれたのです。
最近はそう思うようになりました。
あんまり映画につながる話は書けませんでした。
何しろ書いてしまうと映画の「ネタバレ」になりかねませんので。
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