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2014/11/05

■節子への挽歌2621:弥陀の本願

節子
五木寛之さんの「私訳歎異抄」を読んでみました。
さほど新しさはありませんでしたが、まえがきに魅かれたからです。
そこに書かれていた五木さんの思いが素直に心に入ってきたからです。
それで、久しぶりに歎異抄を読んだのです。

久しぶりに「弥陀の本願」という言葉に出会いました。
節子の生家は、浄土真宗でした。
結婚してから、節子の生家での法事で、何回も聞いた言葉です。
法事での読経の後、参列者全員で和讃の一部を唱えます。
私には初めての体験でしたが、最初に耳に残ったのが、「弥陀の本願」という響きでした。
和讃は実にリズミカルで、聞いているだけでも、ちょっと彼岸を感じさせます。
それも数十人の人たちによる声明は、心に響きます。
おそらくみんな気分が高揚し、一種の彼岸体験をする人もいるかもしれなと思うほどでした。
参列者で声を出せなかったのは、私だけだったのですが、節子の生家のある滋賀県の高月町は「観音の里」というくらい、参列者全員がお経も和讃も唱えられるのです。
それは実に新鮮でした。

もっと新鮮だったのは、「死」そして「葬儀」が「日常的」だったことです。
そこでは、死がまさに「あっけらかん」と語られていました。
いわゆる「他力の慈悲」のなかで生きる人たちを感じました。
節子の母は、「お迎えが来る」という言葉を、実に自然で使える人でした。
節子もまた、そうした文化を引き継いでいたかもしれません。

節子はいなくなってから、高月の法事にはあまりいかなくなりました。
節子が一緒でない法事が、これほどまでに悲しいものだと気づいてから、あまりいけなくなってしまったのです。
来年は義母の法事があるかもしれません。

ちなみに、弥陀の本願は、すべての人を平安な彼岸に導くことです。
それによって、現世の生にも平安をもたらしてくれるのです。
阿弥陀仏に感謝しなければなりません。

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