■節子への挽歌2633:「生涯現役」という生き方
節子
また喪中ハガキが届く季節です。
知らなかった人もいますが、改めて親しい友人のハガキが届くとドキッとします。
やはりもういないのだと思うわけです。
めったに会わない友人の場合は、正直に言えば、訃報を受けた時や葬儀では悲しいですが、3か月も経過すると意識の外に行ってしまいます。
親しい友人の場合も、そうです。
もちろん頻繁に会っていた友人の場合は違うでしょうか、遠くに住んでいて、数年に一度くらいしか会うことのなかった友人の場合は、記憶から外れてしまい、そのうち、亡くなったことさえ意識しなくなるのです。
私が薄情のせいかもしれませんが、少なくともこれが事実です。
それに、会うことは友情の必須要件ではありません。
まだ一度もお会いしたことのない友人も、私には数名います。
相手の方が友人と思っているかどうかはともかく、私の心象世界の中では、友人であり、姿かたちのイメージもあります。
大変不謹慎な話ですが、万一、その方が亡くなったとしたらどうでしょうか。
会ったこともない人との別れは、どんなものでしょうか。
歳をとって世間から隠棲する意味は、友人知人の死を悲しまないため、あるいは自らの死で友人を悲しませないための、知恵だったのかもしれません。
「生涯現役」という生き方は、もしかしたら、そうした人類の知恵に反する生き方かもしれません。
今日も届いた数通の喪中ハガキに目を通しながら、そんなことを考えました。
若い友人から、佐藤さんのように「生涯現役」を目指したいと言われたことが2回ほどあります。
私は、決して「生涯現役」を目指してはいません。
ただ素直に、生きたいように生きているだけです。
しかし、やはり生き方はもう少し考えたほうがいいかもしれません。
人は自然に滅んでいくのが理想です。
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