■多様性という言葉
「異なっていることこそ正常」その4は前回出てきた「多様性」です。
このシリーズの発端の松永さんの講演会で、たまたま隣にお座りになった人が、講演の後、意見を述べられました。
非常に寛容な、そして人間を信頼する感動的な発言でした。
その方は、トリソミーの子どもを授かった父親です。
なによりも感動したのは、今もその子どもとともに、「静かに暮らせている」と話し出したことです。
このブログにも書きましたが、先日、まさにその静かな生活「Still life」(邦題「おみおくりの作法」)という映画を観たのですが、これも何かの縁を感じます。
その方は、2つのことをお話になりました。
一つは出生前診断が広がることには反対ではない。問題はそうしたことをしっかりと受け止めて判断することができるかどうかという、人間側の問題だというのです。
そこに、人間という者に対するゆるぎない信頼を感じました。
そして、自らが「静かに暮らせている」ということの自信と喜びも。
信頼と自信から、「寛容さ」が生まれてくるのでしょうか。
2点目は、「多様性」に関してです。
「多様性」が大切だということが盛んに叫ばれている風潮への違和感が述べられたような気がします。
たぶん、「多様性のためではなく、違うものが存在すること、そのことこそに意味がある」というような発言だった気がします。
実はその時、私はいささか心身が震えていて、正確な発言が思い出せないのですが、ともかくその言葉に感動して、その後、その人に話しかけてしまったのです。
声がうまく出ない自分に驚いたのですが。
翌日、その方からメールが来ました。
なかなか理解力がなくて、「多様性」の本質をどこまでわかっているのかはなはだ疑問ではあるのですが、どんな人間であれ、一人一人が穏やかに生活していくためになにか「論理」が必要だというのは、その「論理」がなければ「優生思想」に傾く恐れがあるためだとは思います。心から共感します。
しかし、「論理」に頼れば、他の「論理」の攻撃に晒される危険もあるという直観のようなものがあります。
シンプルに「みんな、支えあって、穏やかに」という人の温かい心が広まっていくことが大切なのではと感じております。
「みんな、支えあって、穏やかに」という人の温かい心が広まっていくこと。
私が理想とする社会のありようです。
そして、「論理」に頼れば、他の「論理」の攻撃に晒される危険もあるという指摘には、はっとさせられました。
私も、どこかで「論理」を求める心性があります。
もしかしたら、そこにこそ問題があるのかもしれないと気づかされました。
人は言葉を得たことが、最大の間違いだったかもしれないとさえ思い至りました。
多様性という流行語が、社会を均質化されかねない危惧に関しては、その3で少し言及しましたが、流行語には気をつけないといけません。
存在するものは、すべてそれぞれに違うのです。
ただ素直に、その事実を受け入れればいいだけの話かもしれません。
海部町の住民たちが思っているように、気持ちよく暮らしていくためには、「いろんな人がいたほうがよい」のですから。
そして、現実にいろんな人がいるのですから、無理にそろえることも合わせることもないのです。
まさに、「異なっていることこそ正常」なのです。
最初の話に戻ったのでこのシリーズはこれでおしまいです。
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