■知的な言説を聞く耳
「民主主義の中で知的な言説が聞く耳をもたれない時、少数意見を尊重するはずの民主主義は多数決の数の暴力となる」とは、樫村愛子さんの言葉です。
著書の「ネオリベラリズムの精神分析」に出てくる言葉です。
私も、深くそうお思います。
そして昨今の日本には、「知的な言説を聞く耳」が消えつつあることに不安を感じています。
「知的な言説」とは何かというのは、人によって受け止め方は違うでしょうが、私はそれを「自分の生を生きている人の言説」と受け止めています。
そして、「知的な言説を聞く耳」とは、「自分の生に立脚した耳」と考えたいです。
平たく言えば、「頭で聞く」のではなく「心身で聞く」ということです。
「自分の生を生きている人」とは、ますます抽象的でわからないように思われるかもしれませんが、さらに抽象化すれば、「人間」ということです。
このブログでは、最近、社会から「人間」が消えだした、ということを何回か書いていますが、そう感じだしているのは私だけではありません。
昨年、企業経営幹部の人たちのグループで、「人が育つ企業文化」をテーマに半年間話し合いをしてきました。
そこで得た結論の一つは、会社の人間が組織の「部品」化してきているのではないかということでした。
部品は、人間と違って育ちません。
人が育たないのは、部品扱いしているからではないか、というわけです。
フランスでは認知症治療として「ユマニチュード」が広がっています。
ユマニチュードとは、人間として扱うということです。
医療の世界では、患者は往々にして「人間」として扱われないことはよく言われています。
イタリアが精神病院を全廃しました。
精神障害を持つ人を、人間として扱うことによって、状況は大きく変わりました。
この種の話は、さまざまな分野で話題になりだしています。
知的な言説は、人特有のものです。
にもかかわらず、最近は「話す人」も「聞く人」も少なくなってきました。
プロセスが重要なはずの「コミュニケーション」さえもが、機能的な伝達度で測られる時代です。
多様な発想をし、多様な感受性を持つ、人間の知性は機能社会では無駄なのかもしれません。
選挙に関連した記事を書くつもりが、話が広がりだしてしまいました。
しかし、今回の選挙に関して、政党党首などの話を聞いていると、「知的な言説」というよりも、「機械が話している」ような気がします。
「知的な言説を聞く耳」がないからそうなったのか、「知的な言説」がなくなったために「耳」が退化したのか、いずれにしても表層的な言葉のやり取りばかりです。
言葉の世界での論理整合性ではなく、現場の生に立脚して、考えなければいけないと、強く思っています。
そうした視点でだれに投票するか、どの党に投票するか、をもう一度考えて、今日は事前投票に行こうと思います。
政治は、個人の生に深くかかわっています。
誰に入れても変わらないし、投票に行かなくても変わらない、はずがありません。
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