■節子への挽歌2652:聞き手の役割
節子
たまにはうれしい電話も来るものです。
入院していた武田さんがようやく退院するそうです。
最初の言葉は、ドキッとするような電話だったのですが、それは武田さんらしいジョークで、一安心でした。
最近、胃が痛くなるような電話ばかりだったのですが、久しぶりにうれしい電話でした。
もうしばらく武田さんとの現世の付き合いは続くようです。
まあ、あまり長いのも考えものですが。
病院からの電話のくせに、長電話で、相変わらずの政治議論をしてしまいました。
そのうちに、おなかが痛くなったから切ると武田さんが言いました。
お互い、武田さんがかなりの病気であることの認識が欠けています。
困ったものです。
退院がまた延びなければいいのですが。
武田さんは、いまのひどい政治に対する武田さんの意見を聞いてくれる人がいない、少数派の無念さを感ずる、というのです。
しかし、それは喜ぶべきことでしょう。
少数意見の持ち主こそ生きている人間。
多数説にある人は、もう死んでいる人だから、少数派であることに喜びを感じようと応じました。
少数派であることを誇りに思わなければいけないということです。
私と同じくらい単純な武田さんは、「そう言われるとちょっと気分がいい」と言いました。
そこから、いつものようにまた、無意味な政局批判が続きました。
世の主流を歩いている人は、だれも本気で政治など考えていないでしょう。
まあ考えているのは、社会から脱落し、円安だとか株高などとは無縁の生活にある私たちくらいでしょう。
そもそも政治とは、アテネではそうだったように、「余暇活動」なのですから。
武田さんの「論理」的な話に、社会の主流の人たちは耳を貸さないでしょう。
忙しく働いている人たちには、アベノミクスがなんであるかさえ、考える余裕もないでしょう。
私には無縁な、円安や株価の目くらましにあっているだけです。
一方、私には円安も株価も無縁です。
消費税増税だって、さほど金銭消費しない私にはどうでもいい話です。
だから政治の本質が見えてきやすいのです。
原発や集団的自衛権には関心を持たざるを得ません。
自分が生きている時代に、そんな恥ずべきことをしてほしくないからです。
犯罪者にはなりたくありません。
まあ、そんなところが私と武田さんとの共通点です。
だから、武田さんも入院中にもかかわらず長電話してくるのでしょう。
おなかは痛くなったかもしれませんが、まあ今日はあまり反論もなくきちんと聞いたので、武田さんは少しはガス抜きできたでしょう。
聞いてくれる人がいるのはいいことだ、というようなことを武田さんは最後に言っていました。
そうなのです。
人には、だれも聞いてくれないような些末な話を誠実に聞いてくれる人が必要なのです。
節子は、そうした些末な話、私にとっては本質的な話を誠実に聞いてくれる人でした。
聞いてくれて、わかってくれる人がほしいです。
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