■節子への挽歌2673:年の瀬の気分がしません
節子
ちょっと早いですが、娘と一緒に年末年始の買い物に行きました。
なんとなくついていったのですが、いつもと大した違いのない買い物でした。
わずかに数の子やおせちを買い込んだだけでした。
節子がいたころには、年末の買い出しもまた年中行事のひとつでしたが、今はそんな雰囲気はなくなってしまいました。
それに、元日から近くのスーパーも営業しているのですから、特に何かを準備しなければいけないわけでもありません。
おせちや数の子なども、早めに買ってしまうと、年内に食べてしまうことにもなりかねません。
なくなったら元日の初詣の帰りにスーパーで買えるのです。
なにか生活がどんどん平板になっていきます。
しかし、その一方で、わけのわからないイベントが増えています。
そういうものには私は関心が全くないのです。
そういう商業主義的なイベントと歴史の中で生まれてきた季節行事とは、まったく違います。しかし、いろんなイベントや行事があると、感覚がマヒしてきます。
そして、大事にすべき季節行事までも最近はおろそかにしてきているような気もします。
今年は節分の豆まきもしなかったような気がします。
反省しなければいけません。
それにしても、わが家にはあまり歳末風景がありません。
節子は年賀状が好きでしたから、時間をかけて書いていましたが、その風景ももうありません。
私自身は、最近では年賀状はやめました。
以前は、それが年末の忙しさをもたらしていました。
大掃除に駆り出されることもありません。
節子がいなくなってからお歳暮までやめてしまいました。
仕事も、気が向くままという感じなので、年末だから忙しいわけでもありません。
年末に1年間を顧みて、新しい年に供えようなどということもなくなりました。
したがって、年末らしい雰囲気は、わが家にはあまりありません。
いや、私自身の気持ちの中にないのです。
こうなってしまったのはなぜでしょうか。
社会環境の変化もあるでしょう。
しかし、最大の理由は、私の生き方にあるかもしれません。
けじめを詰めずに、だらだらと生きるようになってしまっているようです。
反省しなければいけません。
まあ、こんな気持ちになったのは、節子がいなくなってからはじめです。
来年はもう少し誠実に生きようと思います。
節子がいなくなったせいにして、生きる誠実さを軽んじてしまうのは、もうやめて、来年は少ししっかりと生きようと思います。
一人で新年を迎えるのも、もう8回目です。
少しは進歩しなければいけません。
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