■節子への挽歌2657:「気」が創り出す現実
節子
結婚したジュンは、いまもスペインタイルの仕事をしていますが、その工房がわが家の庭にあるので、午後はわが家に出勤して仕事をしています。
工房は庭にありますが、2階のジュンの部屋にあるパソコンで仕事をすることもあります。
先日、だれもいない日に、2階でパソコンをしていたら、1階で、とんとんと誰かがドアか壁をたたく音がしたそうです。
なんだろうかと思って降りてきたそうですが、だれもいない。
ジュンによれば、その日だけではなく、そんなことが時々あるというのです。
実は、私もそうした経験が何回かあります。
一度などは、1階のリビングに居たら、勝手口のドアをトントンと繰り返したたく音がするので、外まで出てみたこともあります。
それが2日も続いたのです。
いずれも時間は午後の少し遅い時間です。
節子が帰ってきたといったら笑われそうですが、しかし、そうでないとも言い切れない。
こんな時、遺された者は、そうしたことに過剰な意味づけをしがちです。
いうまでもなく、私もそうです。
どこかに痕跡がないかと探すこともあります。
残念ながら見つかったことはありません。
一般には、こうしたことは「気のせい」ということになるでしょう。
しかし、問題はその「気のせい」ということです。
つまり、「気」が何かを創りだす。
「気」によって実際に起こってくることは少なくありません。
社会学者のロバート・マートンは、誤った判断や思い込みなどが,新たな行動を引き起し,その行動が当初の誤った判断や思い込みを現実化してしまうことがある、という「自己成就予言」について語っています。
自らの世界は、自らの意識が創り出していく側面は否定できません。
もっとも、だからと言って、わが家に時々起こる「人の気配」が節子だということが現実化することは客観的には起こらないでしょう。
ただ、それが実際に起こるかどうかは、当事者にとってはあまり重要ではありません。
しかし、そう思い込んでいるうちに、節子の姿が見えだしてくることは、十分あり得ることでしょう。
ただ、その場合は、世間的には「気がふれた」ということになってしまいます。
そういう意味で、「気のふれた」人も、少なくないかもしれませんが、私にはその人が「気がふれた」などとはとても思えません。
むしろ、正常なのだろうとさえ思います。
人の気配がしたら、「節子か?」と声に出します。
これまで返事が聞こえたことはありませんが、彼岸の節子には届いているでしょう。
そう思っています。
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