■節子への挽歌2665:悲しみの大切さ
節子
我孫子にもゆかりのある柳宗悦の『南無阿弥陀仏』には、こんな記述があるそうです。
悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。私もまた、節子を喪ってから、このことを何回も体験しました。
悲しむことは温めることである。
悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。
悲しみは慈しみでありまた「愛しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。
最近、同じ悲しさをかかえている人たちのグループが広がっていますが、おそらくそれは、こうしたことによるものでしょう。
悲しみと悲しみが合わさった時、情愛が生まれる。
人と人がつながるのは喜びをとおしてではなくて悲しみをとおしてだ、と柳は感じていたと、「現代の超克」で、この文章を紹介してくれている若松英輔さんは書いています。
まさにそうだと思います。
若松さんは、こうも書いています。
悲しみを、悲惨なだけの出来事にしてしまったのが現代です。喪失体験の直後は、とてもこんな気持ちにはなれません。
それはとても貧しいことだと思います。
悲しみは決して惨めなだけの経験ではない。
むしろ、悲しみの扉を経なければ、どうしても知ることのできない人生の真実がある。
しかし、数年経つと(人によって時間は違うでしょうが)、悲しむことの大切さがわかってきます。
悲しみは忘れ去るのではなく、大事に大事に、心身にしまっておくのがいいように思います。
それによって、間違いなく、世界は広がり深まります。
悲しみは忘れたり解決するものではないのです。
悲しみは、悲しみのまま、素直に受け入れればいいのです。
柳宗悦の言葉に出会えて、元気が出ました。
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