■節子への挽歌2661:暇の中での反省
節子
昨日、久しぶりに畑に行ってチューリップを植えてきました。
ちょっと遅くなったのですが、まあ大丈夫でしょう。
今年は8月に体調を崩して以来、どうも生活のリズムが回復しません。
体調がよくなると、精神的にダウンし、精神が回復すると体調が変調を来たすという感じです。
困ったものです。
しかし、心身の調子が悪いと、普段は考えないようなことも考えるものです。
それに発想の枠組みも、少し変わってきます。
最近思いついたのは、「なぜ人は働かなければいけないのか」ということです。
そう思っていた時に、副題に「勤勉の誕生」とある「日本人はいつから働きすぎになったのか」という新書を見つけました。
それを先日読んだのですが、とても納得できました。
日本人が勤勉になったのは、そう古いことではないようです。
そして働きすぎに向かいだしたのは、高度経済が始まる1970年前後からのようです。
まさに私は、その時代に会社に入り、会社時代を過ごしていたわけです。
私さえもが仕事の魅力に引き寄せられて、午前様になったり、仕事を家庭にまで持ち込んだりしていたわけです。
幸いに、1989年に私はそこから抜け出ました。
そして節子にも手伝ってもらいながら、仕事をするでもしないでもない、不思議な会社を立ち上げて、共感を持てたプロジェクトに参加させてもらってきたわけです。
それを精神面で支えてくれたのが節子でした。
しかし、その生き方や仕事の進め方は、世間的な常識とはかなりずれがあったようです。
そのためか、家族にはいろいろと迷惑を与えてしまったかもしれません。
働きすぎを避けようと会社を辞めたにもかかわらず、一時は「時間破産」を続けるような毎日でした。
そこからも抜けようとした、まさにその年に、節子の病気が発見されてしまったのですが、そのために、節子と一緒に「ゆったりした暮らし」を楽しむことはなくなってしまいました。
そして、節子がいなくなった今頃になって、もてあますほどの怠惰を味わえるようになったのです。
人生とはまことに皮肉なものです。
節子がいたころに、これほどの時間があれば、と反省しています。
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