■節子への挽歌2666:生き方の揺らぎ
節子
今日は2人の弁護士と接点がありました。
いずれも長い付き合いの友人です。
一人とは私自身のトラブルの相談で、もう一人は私の知人の知り合いのトラブルに関連してです。
前者は東京在住なので、会いに行きました。
後者は関西在住なので、メールのやり取りです。
ところで、偶然なのですが、お2人とも私と同じく伴侶に先立たれているのです。
だからと言って、別にどうしたというわけでもないのですが、ふたりとも弁護士という社会的活動をしていることが、その後の「支え」になっているのかもしれません。
誤解かもしれませんが、夫婦の世界とは違った「もう一つの世界」があったかもしれません。
もし会社勤務時代に節子との別れがあったのであれば、私の受け取り方も違ったかもしれません。
節子を喪ってから、私はいささか「暴走・迷走」しているらしいです。
自分では、必ずしもそうは思えないのですが、娘や親しい友人からはそう指摘されています。暴走や迷走が止まったのは、たぶん1年少し前でしょう。
たぶんこの挽歌にも書いたと思いますが、そのころ、自分でもようやく「我を取り戻した」感じがしましたから。
直接会った弁護士の友人からは、これまでのような「仙人」のような生活をやめて、このトラブルにしっかりと対峙する覚悟を持つかどうかが、解決のポイントだと厳しく言われました。
普段は交流のない彼から、まさかそういう指摘を受けるとは思ってもいませんでした。
私のことを面と向かって「仙人」呼ばわりする友人はいますが、それはせいぜいが2人です。
しかし、もしかしたら、私の生き方は多くの人にそう見られているのかもしれません。
そういえば、昨日久しぶりにお会いした会社時代の先輩から、「まだお布施生活をしているのか」と言われました。
もしかしたら、気づいていないのは私だけかもしれません。
仙人の世界にはトラブルなどあろうはずがありません。
トラブルに悩まされるということは、私が相変わらずただ怠惰で逃げているだけということの現れでしょう。
そういえば、娘からは「良い格好しすぎている」とも言われています。
そのしわ寄せは、みんな周りに行くわけです。
そんなわけで、残る人生は現実的に生きることにしようかどうか、少し迷いが生まれてきました。
私が今考えている「現実的」とは、「現在的意味での常識にしたがって」というような意味です。
そう思って振り合えると、私の人生は昔からやはりちょっとおかしかった気もします。
でも、そのおかげで、節子と会えたのですから、それはそれでよかったのですが、たぶん「自覚」と「覚悟」が不足していたのでしょう。
節子がいない今頃になって、そんなことに気付くのは、結構つらいものなのですが。
それも娘から指摘されると、なお辛いものがあります。
まったく反論の余地がないからです。
いやはや困ったものです。
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