■節子への挽歌2656:人生の修め方
節子
2か月ほど前に、一条さんから自著「終活入門」が送られてきました。
私に終活を勧めるために送ってくれたのではありません。
一条さんは本を出版するたびに、いつも送ってきてくれるのです。
いろんな人が自著を送ってきてくれますが、それらはきちんと読んで、私のホームページで紹介するようにしていますが、読めない本もあります。
いまだに、死やグリーフケアに関する本が、私にはなかなか読めないのです。
この「終活入門」も、そんなわけで長いこと机の上に積んでいるだけでした。
昨日、なんとなく手に取って読んでしまいました。
当然ですが、一条さんらしいメッセージが込められていました。
あまり抵抗なく読めました。
そういえば、数日前には松永さんの「小児がん外科医」も読むことができました。
私の意識も少しずつ変わってきているようです。
一条さんは、「終活」を「人生の終い方」ではなく「人生の修め方」と捉えています。
「修め方」、私の名前も入っているなと改めて思いました。
「人生の修め方」。
そういえば、私にはこの視点がまったくないことに気づきました。
素直に生き、自然に死んでいくのが、私の理想だからです。
しかし、それでは周りの人たちには大きな迷惑をかけるでしょう。
節子がいれば、それでよかったのですが、節子がいない今は、「人生の修め方」を考えないといけないと反省しました。
一条さんからのメッセージを、私はそう受け止めることにしました。
しかし、「人生の修め方」とは難しい課題です。
ちなみに、コムケア活動に取り組んでいるおかげで、「エンディングノート」については10年ほど前から私自身関心を持っていました。
おそらく日本ではじめてに近いころに作成されたエンディングノートは。コムケア仲間の嶋本さんが作ったものです。
ささやかに応援させてもらいました。
当時は、「エンディング」という言葉に抵抗があるといったら、嶋本さんは「サクシード・ファイル」という言葉を考え出してくれました。
いまから思えば、「エンディングノート」という嶋本さんの提案をそのまま受ければよかったと反省しています。
嶋本さんが当時考えていたのもまた、生き方の話でしたから。
あの時、もっと真剣に考えておけば、表層的な言葉に惑わされることはなかったでしょう。
難しい課題ですが、少し真剣に考えてみようと思います。
気づくのが、あまりに遅かったのですが。
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