■節子への挽歌2704:一人の死とたくさんの死
節子
シリアではいま国際的な内戦が広がっています。
そのなかで、2人の日本人がイスラム過激派に拘束され、1人は殺害されるという事件が起こっています。
これに関しては、この数日、時評編に何回か書きました。
節子にも書いておこうと思います。
こういう事件が起きると、私たちはよく話し合ったものです。
あの頃が実に懐かしいです。
2人の日本人が殺害されるかどうかで、世界は大きな騒ぎになっています。
しかし、その一方では、まったく報道もされずに、たくさんの人たちが、内戦で毎日のように殺害されています。
イスラム国が外国のジャーナリストなどを殺害する方法は残虐だと言われていますが、空爆で無差別に突然殺害される場合の方がむしろ残虐かもしれません。
しかし、そうした視点は誰からも指摘されません。
こうした報道を見ていつも思うのは、大騒ぎになる「ひとりの死」と騒がれることもない「たくさんの人の死」とを、どう考えればいいのかということです。
人の命の重さには変わりがないと言われますが、にもかかわらず、騒がれたり騒がれなかったりするのはどうしてでしょうか。
愛する人の死を体験した人であれば、どんな人の死にも、たくさんの「物語」があることに気づくでしょう。
有名人だけに「物語」があるわけではありません。
シリアの内戦で殺害されたたくさんの人の死には、それぞれに物語があります。
にもかかわらず、だれにも気づかれずに死にいく人たちがいる。
その事実こそが、むごくて残虐なのではないのか。
一人の死の向こうにある、たくさんの死を思わずにはいられません。
しかし、なんで人は殺し合うのでしょうか。
実に哀しいです。
シリアにはパルミュラ遺跡があります。
節子と一緒に行きたいと思いながら、ついに行けなかった遺跡です。
来世では行けるかもしれません。
破壊などされていないといいのですが。
こんなことを思うのは、いささか不謹慎ですね。
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