■「祈り」よりも「自分の生き方の見直し」
昨日、イスラム国による日本人拘束事件も、先が見えてきたようでほっとしていると書きましたが、どうもそうでもないような感じに展開しています。
さらに事件の向こう側が見えてきて、ほっとするどころかやはりぞっとするべきかもしれません。
まだ私の推測は捨てきれずにいますが、いささか甘かったと反省もしています。
ところで、昨日の記事では「恫喝」よりも「祈り」だと書きました。
しかし、今日は「祈り」より「自己反省」だと言いたい気分が強まっています。
祈りを否定するつもりはありませんが、単に「祈る」だけではなく、こうした事件をひき起きしたことに対して、自らの生き方を一度問い直すべきだということです。
「I am Kenji」の運動が広がっています。
あるいは、後藤さんを支援するサイトもいろいろとできてきています。
私の友人も立ち上げていますし、私も一つだけあるサイトにサインしました。
しかし、やはりどこか違和感があって、心が動きません。
「I am Kenji」のカードをもった写真を何回も見ているうちに、その違和感はますます高まっています。
ましてや「私はシャルリー」の呼びかけの写真とつなげて考えると、むしろ否定的にさえなります。
少なくとも「私はシャルリーではない」の方が、私にはぴったりくるからです。
ジョージ・クルニーでさえ始めたというニュースには驚きました。
これを機に、私はクルーニーファンであることをやめました。
事の発端の一つは、シャルリーの恥ずべき行為だったと私は思っているからです。
すべての物語には始まりがあるのです。
日本の「I am Kenji」運動は西前さんの純粋な思いからスタートしているようです。
西前さんの純粋な思いには微塵の疑いもありません。
その言葉には心から共感できます。
しかし、その運動に参加している有名人の写真を見ているうちに、どうも違和感が出てきてしまうのです。
あなたたちの活動がイスラム国を生み出したのではないかとさえ思ってしますのです。
いや、イスラムの一部の人たちが、自爆テロまでして抗議している今の世界を作ってきたのは、有名人だけではありません。
私たちの生き方が、それを支えてきたのです。
そうであれば、私にも責任はある。
世界を変える出発点は、いつも自分にあります。
祈りは、そうした自己反省、自らの生き方の問い直し、そして生き方を変えていくことがあってこそ、力を持ちます。
祈りが意味を持つのは、祈る人自身の誠実さです。
誠実さは自らの生き方に裏付けられていなければいけません。
この事件を契機に、多くの人たちの生き方が変わっていけば、世界はいつか変わるでしょう。
しかし、祈る一方で、問題を相手に帰責しているようでは、イスラムの人たちや貧しい人たちをますます窮地に追い込んでいく世界になりかねません。
私は、祈りの中に、自らが生き方を変えられるようにという祈りも加えたいと思います。
たしかにイスラム国の取り組みには憤りを感じます。
しかし、彼らがなぜそういう行動をとるのか。
相手を責めるだけでは、前に進みません。
相変わらず好戦的で攻撃的な発言を繰り返している日本の政府にこそ、矛先はむけられるべきだろうと思います。
そして、こういう世界を支えている私自身の生き方にも批判の目を向けるべきだろうと思います。
祈りも大事ですが、まずは私の日常行動を変えなければいけません。
だれかに帰責しても、誰かを非難しても、事態は変わりません。
私に何ができるのか。
すぐには何も変化は出ないと思いますが、100年後には世界が変わっていることを念じながら、その方向に向けて、さらに一歩を踏み出したいと思います。
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