■節子への挽歌2707:背広を着るとしゃきっとしてしまう哀しい習性
節子
今日も背広を着てきました。
背広を着ると気分がしゃきっとします。
私も、そういう風に仕立てられてしまっているわけです。
今は、月に1回か2回しか背広を着ませんので、基本的に私はしゃきっとはしていないことになります。
そういう生活がこの数年続いていますので、時々、背広を着るとなぜかうれしくなります。
困ったものです。
しゃきっとしていると一人でも立っていられるのですが、しゃきっとしていないとどうも一人では立っていられないのです。
当然ながら、一人では立ち続けていられないのは健全な人間の証拠です。
しかし、しゃきっとできないので、仲間がほしくなります。
背広を着ていない人は、なぜかスキが多いので、仲間は必然的に背広を着ない人が多くなります。
しゃきっとしない人が集まると、全体もまたしゃきっとせずに、わけがわからない集まりになることもあります。
私は、いまは「しゃきっとしない族」にいますが、かつては「しゃきっと族」の一員でしたので、ある程度、しゃきっとしていないと居心地が悪いのです。
その上、時々、しゃきっと生活の楽しさを思い出して、一時的しゃきっと族言動に陥るのです。
そうなると始末が悪いのです。
中途半端なしゃきっと族への嫌悪感が湧きおごってしまうのです。
そして、たいがいにおいて、後で自己嫌悪に陥るわけです。
こう書いてきて、気づいたのですが、最近は逆転しているかもしれません。
今日は、これからビジネススクールに2回目の講義に行くのですが、前回の受講者はあんまりネクタイをしていませんでした。
私だけがネクタイだったかもしれません。
背広でネクタイの大企業正社員とフリーランスのアントレプレナーを比較すると、しゃきっとしているのは後者ですね。
気づくのが、あまりに遅すぎました。
私の今日の講義はアジテーションの要素が強いのですが、背広を着た老人からアジテーションされても迫力はないでしょうね。
次回は背広はやめましょう。
もし次回があれば、の話ですが。
さてそろそろ会場に向かいます。
始まりの時間に遅れた実績も少なくありませんので。
やはり背広を着てもしゃきっとするわけではなく、要はその人次第ですね。
私がしゃきっとしていないのは、背広のせいではないようです。
困ったものです。はい。
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