■節子への挽歌2685:不幸に恵まれた人生
節子
運動不足のせいか、あるいは食べ過ぎのせいか、どうも心身の軽やかさがありません。
最近、睡眠はきちんととっているのですが、なぜか眠いのです。
永眠に入るにはちょっと早い気もしますが、困ったものです。
「苦界浄土」を読むつもりが、年が明けた途端に、本を読む気が失せてしまいました。
年末から年始にかけて、いろんなことがありました。
「苦界浄土」だけではなく、何冊かの本をパソコンの横に置いていますが、読む気が起きません。
気がないと読んでも頭に入りませんから、読まないほうがいいのです。
何かとやることは多いのですが、やらなくてもいいことばかりやっているのかもしれません。
私の場合、いつも「思うがまま」に、やるかどうかが決まってきます。
ですから時々、なんでこんなことをやっているのだろうかと自分で思うことも多いのです。
しかしやりだしたことは、途中で投げ出すわけにはいきません。
節子からはいつも「あなたの優先順序のつけ方はおかしい」と言われていましたが、たぶん私の判断基準は世間からずれているのです。
この性癖もまた、いつになっても直りません。
しかし、世の中には「やらなければいけないこと」が多すぎます。
誰かに頼まれたわけでもないのですが、頼まれていないからこそ、やらないといけないというのが私の気分なのです。
しかし、それをすべて受けているとまたまた時間破産に陥ります。
パスカルは「パンセ」で、人は部屋でじっとしていられずに外に出ていくために不幸になるのだと書いているそうですが、まったく同感です。
だれともつきあわずに、ひっそりと生きていれば、不幸にはならないでしょう。
「引きこもり」の魅力に、時々、身を任せたくなることもありますが、これもまた、私にはできそうもありません。
私はたぶん、不幸に恵まれた人生を送るように生まれついているのでしょう。
こんな寒い日は、自宅でゆっくりしていればいいものを、と我ながら思うのですが。
しかし、石牟礼さんも、そうやって「苦界浄土」の世界に引き込まれたのでしょう。
こんな言い方をすると叱られそうですが、その世界に魅了されれば、幸せや不幸などは超えられるのはないかと思います。
そして、時間もまた超えられる。
生と死の境界すら超えられるのかもしれません。
今日、少し遅れた年賀状がYさんから届きました。
そこに、「NPOにつまづきを感じながら頑張っています」と書いてありました。
YさんがNPO活動に取り組みだしたきっかけには、私もささやかに責任があります。
それで私も何回か足を運びました。
お礼に大根やそば粉をもらったこともあります。
お金をもらった仕事はすぐ忘れてしまいますが、漬物や大根をもらった仕事は決して忘れることはありません。
それに、Yさんはわざわざ作業用の軽トラックでKさんと一緒にわが家まで節子に花をあげに来てくれました。
その恩義を忘れるわけにはいきません。
この一言のメモを書いたのは、YさんもKさんもきっと何か困っているからでしょう。
その声を聞いてしまった以上、何かできることを考えなければいけません。
だから年賀状を読むのが好きではないのです。
人とつきあうと、本当に不幸になるのです。
パスカルは、どうしたのでしょうか。
間違いなく不幸だったでしょうね。
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