■パリの大規模デモへの一抹の不安
連続テロ事件が起きたフランスの各地で11日、テロに屈しない決意を示す大規模な行進があったと各紙が報じています。
フランスのメディアによれば、200万人を超える人が参加したそうです。
しかも、パリでのデモ行進の先頭には、国家や宗教を超えて、さまざまな人たちが歩いていました。
オランド大統領の呼びかけに応じて、イギリス、ドイツの両首相らが腕を組んで行進し、その隣には、イスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ自治政府のアッバス議長の姿もありました。
それをテレビで見た時には、感激しました。
大きな困難の前には、団結が実現するのだと思ったのです。
しかし、テレビで見たパリの共和国広場の大群衆の映像が、気になってしまいました。
なぜかヒトラーの演説に集まった大群衆に、イメージが重なってしまったのです。
こんなことを思うこと自体、非難されそうですが、どこかに間違いが隠されているような気がしてなりません。
今朝のテレビでは、イスラム過激派ボコ・ハラムが、少女に自爆テロを強制した事件を報じています。
許されない非道な行為と報じられていますが、私もそう思います。
しかし、なぜ彼らがそこまでやってしまうのだろうか、という疑問も同じようにますます強まってきます。
本当に、イスラム過激派だけを責めていいものなのか。
パリの行進に集まった各国の首脳たちに、責任はないのか。
そして、イスラム過激派に関する報道は、果たして事実なのか。
そうした問いかけが、ますます大事になってきているように思います。
父親を水俣病で亡くし、自らも水俣病患者だった緒方正人さんは、その著書「チッソは私であった」の中で書いています。
私がチッソの中にいたらどうしただろう、30年、40年前、チッソの中にいたらどうしただろうかと考えることがヒントでした。今まで被害者、患者、家族というところからしか見ていないわけですね。立場を逆転して、自分が加害者側にいたらどうしただろうかと考えることは今までなかったことでした。そして、私も同じことをしたんじゃないかという恐ろしさを初めて感じました。緒方さんは、問題の立て方を変えることにしました。
そして緒方さんは、チッソに対する訴訟からおり、新しい生き方にうつりました。
その基本にあるのは、人間の尊厳性の回復です。
対立からは、何も生まれません。
人として話し合えば、そして魂が通じ合えれば、殺し合うことは起こらないでしょう。
それに、人間は社会的な存在ですから、生物的な「生命」を奪わなくとも、相手を殺すことはできます。
そして、自分では気づかないまま、相手を殺していることもあるのです。
非道な行為を始めたのはどちらが先かは、大きな目で考えなければなりません。
共和国広場の大群衆に熱気の中から、何が生まれて来るのかに、いささかの不安があります。
歴史は繰り返すとよく言われますが、そうならないことを祈るばかりです。
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