■節子への挽歌2716:気づかないことが多すぎました
節子
うかつにも気づかなかったのですが、湯島のオフィスの西側に大きなビルが建ち始めています。
今までのように、夕方の落日の風景が見られなくなってしまいました。
湯島に来るたびに、外は見ているのですが、そしてそのビルが建ち始めていたのは気づいていましたが、その意味を「意識」したのは今日が初めてです。
つまり、建物が建つことと夕日が見られなくなることとがつながっていなかったのです。
こういうことはよくあることです。
節子がいなくなってから、その意味をさまざまな形で思い知らされていますが、人はあまりに身近にあるもののありがたさになかなか気づかないものです。
それは、しかし、節子に関してだけの話ではないかもしれません。
娘に言わせると、私は周りの人の苦労や気遣いなどに気づく心遣いに欠けているようです。
自分では決してそんなことはなく、むしろ気遣いのあるほうだと思っていたのですが、娘からの言葉はどうも正しいようです。
言葉で相手を傷つけていることも少ないようです。
たぶん節子も最初はかなり傷つけられたことでしょう。
いや最後までそうだったかもしれません。
しかも、発言する私自身に、そうした意識が皆無ですから、ますます持って始末が悪いわけです。
私の生活が、かなり破綻気味なのは、節子がいなくなってしまったためではなく、いなくなったことをしっかりと「意識」していないためかもしれません。
破綻しているのが、自分でも気がつかないのです。
今日も寒い日でした。
大学教授をしている古い友人が訪ねてきてくれました。
しばらく会っていない間に、良い先生になっていました。
いろいろと刺激を受けました。
前に向かって進んでいる人はまぶしく感じます。
しっかりしなければいけません。
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