■国家を中心とした安全保障か、人間を中心とした安全保障か
冷戦後の世界では、国家を中心とした安全保障から人間を中心とした安全保障へと視点が変わってきていると言われています。
しかしながら、今回のイスラム国日本人殺害事件に関する日本政府の考え方は、それとは反対の動きを示しています。
いま国会で行われているやりとりを聞いていて、それがよくわかります。
菅官房長官が2日午後の会見で、政府としては身代金を用意せず、犯人側と交渉するつもりはなかったこと(事後の発表ですから、これは「事実」です)を明らかにしたことに関して、孫崎さんがテレビで強く批判していましたが、日本人が拘束されている状況の中でも相手と「交渉しない」というのは、私には犯人側の一方的な攻撃姿勢と同じように思います。
全く交渉しないということは、解決するつもりがないということと同じです。
つまり、日本政府は最初から2人を「コラテラル・ダメッジ」として考えていたということになりかねません。
日本政府は、国家を守るためには日本人を犠牲にするということです。
もしそうであれば、イスラム国と全く同じではないかとさえ思ってしまいます。
原発事故やその後の原発輸出の動きにも、そうした日本政府の安全保障観が感じられます。
冷戦後に、国家起点ではなく人間起点で安全保障を考えるという動きが出てきたのは、核兵器の出現と無縁ではありません。
抑止力を高めるために核兵器増強競争をしているうちに、核兵器そのものの存在が自らの存在さえをも危険にさらずようになってきたのです。
つまり、脅威は他国の核兵器ではなく、核兵器そのものになったわけです。
それが結局は冷戦を終焉させる契機になったわけですが、同時に、国家(体制)維持のための安全保障ではなく、人間の生活安全を中心にした安全保障へと大きく流れを変えだすことになったように思います。
テロ行為もまた、核兵器と同じように、国家を超えだしています。
イスラム国は、国と言っていますが、これまでの国家概念には当てはまりません。
いまの構図は、国家を超えた「テロ活動」と社会の関係だと思いますが、9.11を契機に、ブッシュ政権はテロと国家の対立構図をつくってしまいました。
ですから、「イスラム国」などという、わけのわからない存在が生まれてきたのだろうと思います。
そして、最近の日本政府もまた、「イスラム国」と似てきているような気がします。
人間を中心とした安全保障は、むしろ日本がイニシアティブをとっていた時代もありました。
しかし、小泉政権から方向は変わりだしました。
それに関しては、ホームページで何回か書いたことがありますが、安倍政権(第1次も含めて)になって、まさに反転した感があります。
イスラム国問題は、福島とも深くつながっています。
そのことを見落としてはならないと思っています。
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