■節子への挽歌2729:「ゴドーを待つ生き方」
節子
今日はちょっと最近の気分の披瀝です。
有名なベケットの「ゴドーを待ちながら」の舞台は観たことがありません。
戯曲もきちんと読んだことはありません。
なんとなく知っているだけなのですが、「ゴドーを待つ生き方」がなんとなく理解できるようになったのは、節子がいなくなってから数年してからです。
戯曲も読んでいないし舞台も観ていないので、「ゴドーを待つ生き方」と言っても、私の独断的な解釈ですが。
節子を見送って数年は、前に向かって生きようなどという気は全く浮かびませんでした。
生きている意味さえ考えられませんでした。
しかし5年ほどたってからでしょうか、もしかしたら私は「何かを待って生きている」というような気がしてきました。
待っているものが、死かもしれませんし、娘たちの幸せかもしれません。
しかし、どうもそうではないような気がしてきました。
私が待っているのは、まさに「ゴドー」なのです。
前に進もうとする。
あるいは後ろに後退しようとする。
でもその時に、ふと思うのです。
「いや動き出さずに、ゴドーを待とう」と。
ゴドーを待つことこそ、生きるということではないかと。
私もようやく「ゴドーを待つ生き方」の境地にたどりついたのです。
そして、そのゴドーの気配を最近感ずるようになってきました。
来ると信じられるようになれば、待つことが終わります。
何やら禅問答のような話ですみません。
しかし、最近、まさにそんな気分が私を覆っているのです。
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