■節子への挽歌2731:人の死は人の生のためにある
節子
先日のサロンの後、何人かで居酒屋に行ったのですが、そこでこんなことが話題になりました。
悲惨な状況の中でも、親は自らを犠牲にしてまで、子どもだけを助けようとする。
しかし、悲惨な状況の中で一人残された子どもはどうなるのか。
むしろ残すことなく最後まで一緒にいたほうがいいのではないか。
自らが死んだら残された子どもたちはどうなるか。
そういう思いで、子供を道連れにする親がいる。
道連れにされた子どもの立場はどうなるのか。
話題になったのは、前者の話です。
後者は、それと関連して、私が思い出した話です。
ところで、前者の話を聞いた時、「それは、子どもを生かしたいということではなく、自分が生きたいからではないか」という気がしました。
そして、節子のことを思い出して、私の体験的な実感を話しました。
愛する人がいる。
その人が死のうとしている時に心身が感ずるのは、その人の死ではなく自らの死です。
その人が死なないように願うのは、自らが生き続けたいと願うことに重なります。
そうであれば、たぶん自らが死のうとする時に思うのは、死を免れない自分の生を生き続けられる可能性をより多く持つ子どもに託するという本能です。
自らの実感を伝えるのは難しく、あまり伝わらなかったと思いますが。
柳田邦男さんは、息子に先立たれています。
脳死状態の息子さんと一緒に過ごした11日間を書いた「犠牲(サクリファイス)」は、私はいまも読めずにいます。
しかし柳田さんのほかの著作の中で、柳田さんの思いはさまざまに感じさせてもらっています。
ある著作の中で、柳田さんはこう書いています。
「彼の存在感は19年経った今も、私の心のなかで1パーセントも薄らぐことなく特別の場所を占めている。彼のいのちは、私の中で傲然とした側面さえ漂わせて生きているのだ。」命はつながっている。
息子は父の中に生き続け、父は息子の中に生き続ける。
親が子供の生を願うのは、まさに自らの生を願うからなのではないか。
もっといえば、個体としての人の生から解放されれば、不滅のいのちの世界に入れるのかもしれません。
そして、人の死は、人の生のためにあるのかもしれません。
死は、むしろ「別れ」でしかないのかもしれません。
生と死は対称的な存在だということです。
死んだのは私であって、生き残ったのが節子かもしれない。
そんな気もします。
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