■「安全保障のジレンマ」異論
ウィキペディアによれば、「安全保障のジレンマ」とは、「軍備増強や同盟締結といった自国の安全を高めようと意図した国家の行動が、他国に類似の措置を促し、双方が欲していない場合でさえも、紛争をもたらす緊張の増加を生み出してしまう状況」と説明されています。
これは、安全保障の逆説ともいわれることもあります。
しかし、きちんと考えればこれはジレンマでも逆説でもなく、本来的に「安全保障」の捉え方を間違っているだけの話だろうと私は思っています。
とりわけ、最近何回か書いた「国家安全保障」においては、少し考えればすぐわかることです。
「抑止力理論」が示しているように、自国の安全保障を高めるということは、相手の安全を危険にさらすことによって担保されます。
そうした状況が、安定した関係や全体の安全性を危ういうものにすることは明らかでしょう。
しかし、これが国際政治学においては「安全保障」と言われているのです。
生活者の視点から考えれば、なんと馬鹿げたことでしょうか。
不安な状況を創り出すことで、安全が保障されるというのですから。
専門家の難しい理論や言説には、こうした「裸の王様」的な理論が少なくありません。
ですから私は、専門家のいうことだから正しいなどとは思うことはありません。
専門家ほど、専門分野における知識が少ない人はいないとさえ思っています。
知識は、相対的な位置づけがあってこそ、意味があります。
そういう認識のない専門家の知識は、私には無意味なものにしか思えません。
最高の安全保障は、宮沢賢治のいう「みんなが幸せにならないと自分も幸せにならない」ということだろうと思います。
イスラム国を非難し、追い込むだけでは安全な社会は決して来ないでしょう。
発想を変えなければいけません。
追い詰められた人の反撃をなくすには、追い詰めることをやめればいいだけの話なのです。
専門家の難しい議論に騙されないように、無垢な子どもの目を持ち続けたいと思っています。
そして、宮沢賢治がそうであったように、隣に困った人がいれば、自分に何ができるかを考える生き方をしたいと思っています。
もっとも、最近は自分自身に困ったことが増えてきているのが問題なのですが。
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