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2015/02/23

■節子への挽歌2730:日常のなかの異邦人

節子
「日常のなかの異邦人」という言葉があります。
哲学者の鷲田さんが言いだした言葉のようです。

「異邦人」といえば、どうしてもすぐにカミユを思い出します。
あの小説を読んだ時の衝撃は忘れられません。
しかし、異邦人は何も特殊な存在ではなく、人は時々、自分が異邦人であるような気分に陥ることがあります。
自死遺族の人と話していると、時々、この人は現世にはいないのではないかと思うことがあります。
いや他人事ではありません。
私自身、節子に旅立たれて数年は、自分がこの現世に居場所がないような気がしていました。
いまもなお、時にそうした気分になることもあります。

ある意味では、私は小さな時から異邦人気分を持っていました。
うまく説明できないのですが、どこか世間の常識に適合できないのです。
不登校にはなりませんでしたが、勉強が好きだったくせに、学校は嫌いでした。

今日、時評編に「りんご2つとみかん3つ、合わせていくつか」という話を書きました。
友人の太田さんから聞いた話です。
とても共感できる話です。
太田さんは最近湯島によく来ます。
しばらく交流が途絶えていましたが、密接な交流が再開したのは、節子のことを知って、太田さんが突然わが家にお線香をあげに来てくれてからです。
どこかで何かがつながったのかもしれません。
太田さんは間違いなく異邦人です。

湯島には、そういう異邦人がよく来ます。
社会の中心を歩いている人も来ますが、そういう人はだいたい一度で来なくなります。
しかし、異邦人の要素を少しでも持っている人は、たぶん居心地がいいせいか、長居をしたり繰り返しやってきたりします。

私も世間に居場所のなさを感ずることは多かったのですが、節子がいたころは、そう思ってもいつも寄港してこころ休まる港がありました。
節子のことです。
節子はいつも私に安堵を与えてくれる存在でした。
私のどんなわがままも受け入れてくれました。
ですから、自分が異邦人と思ったことはありませんでした。
一人とはいえ、同邦人がいるのですから。

節子が旅立って、私は、カミユの異邦人とは違う異邦人という存在がよくわかりました。
だれとも心がつながらないのです。
いまだから言えますが、むすめたちとも心が通じない。
現世にいながら、現世を実感できないのです。

いま思うと、もしかしたら節子も、最後の闘病の時、異邦人の孤独を味わっていたのかもしれません。
一度だけ、そういうまなざしを私は感じたことがあります。
その時には、おろおろしてしまい、うまく節子の心を抱きしめてやれませんでした。
時々、そのことを思い出すと今も恐ろしいほどに滅入ってしまいます。
どんなに寄り添ったつもりでも、寄り添えないものなのです。
私だけがそうだったのかもしれませんが、時々、そんな気がして、悲しさに襲われます。

異邦人が何人集まっても、結局はみんな一人ひとりの異邦人。
今日は一生懸命、仕事をしましたが、夜になって、無性にさびしいです。
なぜ節子はいないのでしょうか。

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