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2015年3月

2015/03/31

■城里町のみなさんから学ぶこと〔7〕

いろいろと事件があって、なかなか続けられません。
今日は、引っ越し作業に職員が取り組んだ問題の是非の続きです。
断片的に書いているので、気が抜けてきた感じはしますが。

さて、職員が自分たちで引っ越し作業をしたことによって、生まれたものは何でしょうか。
昨今では、「コスト」ばかりが注目されますが、コストはパフォーマンスとの関係において評価されなければいけません。
つまり大切なのは、コストではなく、コスト/パフォーマンスです。
そして、コストもパフォーマンスも金銭だけで考えるべきではないと思います。
ではこの場合の「パフォーマンス」、成果とは何か。

ホームページには書いたのですが、先日の食養サロンで、長年企業に関わっている太田さんが、企業の社員寮で朝食をきちっと食べるような状況をつくったら、社員同士の交流が深まった事例を紹介してくれました。
最近は、同じ組織にいても、仕事以外での交流の機会が少なくなってきています。
まさに、組織の成員が大きな機械の部品のような存在になってきているのです。
そういう状況の中で、仕事は無関係な交流は組織を変える契機になります。
つまり、みんなで仕事を離れて、引っ越し作業をやったことで、普段とは違う交流が起こったはずです。
そこから生まれた「成果」は、とても価値のあるものだと思います。
私の会社時代を振り返っても、その意味の大きさを確信します。
職場に関する関係性も変わったのではないかと思います。
職場は、与えられた檻ではないのです。

もちろん大きくて重いものは、当然ながら専門の業者の人に頼んだはずです。
専門家に任せたほうが効率がいいという意見もありますが、それは個々にはあるでしょうが、全体としては、たぶんそんなことはないでしょう。
現に設備や備品や書類を使用している人たちが、実際の運搬や配置に取り組んだ方が、能率もいいでしょうし、扱い方もていねいだろうと、私は思います。
しかし、それはあくまでも副次的なもので、大切なのは、自分たちで引っ越し作業をやるということの意味ではないかと思います。
もしかしたら、仕事に対するとらえ方が変わったかもしれません。
いつもとは違った才能や人柄や、あるいは親しみが発見され、共有されたかもしれません。
それに、きっと楽しかったに違いありません。
そして、なかには打ち上げを楽しんだ人がいるかもしれません。

家事を外注することに抵抗感がなくなってきている時代には、私の考えは特殊かもしれません。
しかし、家事を外注することによって、家庭や家族が変質してきているように、職場も組織も変質していくはずです。
いや、もうすでに大きく変質しています。
いまや「仕事」そのものまで「非正規社員」に外注するようになってきているのです。
そうした動きには、私は大きな違和感があるのです。

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■「地方消滅の罠」(ちくま新書)はお勧めです

「お金、お金、お金」の記事の続きです。
この記事をフェイスブックにも紹介したら、コメントが書き込まれました。

佐藤さん、私はこの記事を新聞で読んでそんなに深く考えませんでした。私ももう少しで(少しでないかな?)若かったら島根に行ったかも、と思いました。ひとり親家庭にとって仕事と家があり、子どもと安心して暮らせる場所があることだけでありがたいと思うのです。確かにお金ではないですが、やっぱりお金が問題になります。
それに対して、私はこうコメントを返しました。
問題は「子どもと安心して暮らせる場所」が失われていることに大きな問題があります。 私たちが、そうした社会をつくってきたのです。 その発想を断ち切らないと、誰もが気持ちよく安心して暮らせる社会には向かわないのではないか。 アマルティア・センが指摘したように、地球は今存在するすべての人たちが安心して暮らせるだけの十分な支えを提供してくれているのです。 たしかにお金がないと生きづらいのが現実です。 しかし、いまではお金があっても生きづらくなっているようにも思います。 発想を変えないといけないのではないか。 すぐにとは言いませんが、生き方も変えないといけないのではないか。 ちなみに、私はお金をすべて否定しているのではありません。 地域通貨のように、「あたたかなお金」をみんなで創り出せたらいいなと思っています。
山下祐介さん(首都大学東京准教授)の「地方消滅の罠」(ちくま新書)はとても共感できる本です。 政府の「地方創生戦略」は地方に良い結果を生み出すでしょうか。 そこには「大きな罠」があるように、私も考えています。

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■節子への挽歌2756:桜の季節

節子
ようやく春です。
桜が満開で、わが家からも下の道沿いの桜がよく見えます。
今年も、どうも花見に行く気分ではないのです。

春にはふさわしくない、少し暗い話ですが、どうも私から何かを「愛でる気持ち」が失せてしまったのかもしれません。
節子がいなくなってから、好奇心は相変わらず衰えていませんが、何かを愛でるとか味わうという気持ちが消えてしまった気がします。
もしかしたら、もともと私にはそうした審美感が弱かったのかもしれませんが、最近、特にそうなってしまった気がします。
言い換えれば「感動」がなくなったのです。

もちろん、いまもそれなりに「感動」や「感激」を体験することは少なくありません。
でもなぜかそれは、「人の気持ち」などへの反応がほとんどであって、「花鳥風月」への気持ちではないような気がします。

いささか理屈っぽく言うと、世界がとても冷めて見えるようになってしまったのです。
美しい桜の向こうに、花も葉っぱも落した枯木が見えてしまう。
花の下ではしゃぐ人たちの向こうに、寂しさや悲しさを感じてしまう。
そこに居る自分自身も、何か他人のように思えてしまう。
素直に生きたいと言いながらも、あんまり素直でない自分がいるのです。
困ったものですが、そこから抜け出られない。

依然、私を元気づけようとしたのでしょうが、お花見に誘ってくれた人がいます。
出かけて行って、結局は逆に落ち込んでしまいました。
華やかな桜の下で、どう対処したらいいのか、わからなかったのです。

しかし、それもこれもみんな、「思い込み」かもしれません。
あれからかなり時間がたちますし、お花見に行ったら、気分が変わるかもしれません。
さて、行ってみますか?
わが家から少し歩くだけで、桜が見られますし、湯島のオフィスに行くのに上野公園を通っていけば、桜は満喫できるのです。

節子は桜が好きでした。
とりわけ病気になってからは桜が見たいと、いろいろなところに付き合いました。
最後に見た桜は、近くのあけぼの公園の早咲きの桜でした。
昔は家族などで、あけぼの公園に毎年お花見に行っていました。
節子がいなくなってから、それもなくなりました。
今日も人出でにぎわっていることでしょう。
あけぼの公園も、久しく行っていません。
私の世界はかなり狭くなっていることに、いまさらながら気づきました。

桜の季節になると、世間とは反対に、私は少し暗くなってしまうのです。
困ったものですが。

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2015/03/30

■節子への挽歌2755:モンキチョウに出会いました

節子
畑は今日も順調でした。
残っていたジャガイモをすべて種付けしました。
道沿いのチューリップも、だいぶ咲き出しました。
節約して今年は30球根しか買わなかったのですが、順調に育つことがわかったので、来年は100球根にしようと思います。
アジサイとバラも、今年はきちんと手入れをしたいと思います。
野草と私との力関係が変わりそうです。

新しい試みを始めました。
畑の端っこに野草が生えるのが気になっていますが、そこに使用済みのコーヒーの粉をまくことにしました。
野草の成長を止めるのではないかと思ったのです。
湯島のベランダで、もしかしたら肥料になるかと思って、ランタナの大きな鉢にコーヒーの粉をまいたら、そこからは草が生えてこなかったのです。
この2か月、ためておいたコーヒーの粉を今日、畑のまわりに撒きました。
さてどうなりますか。

今日はとてもあたたかでした。
今年初めて、モンキチョウに会いました。
土を耕している時に、幼虫にも出会いました。
生き物が元気になってきているようです。
蛇に会うのは避けたいですが、そろそろ気をつけないといけません。
それに鍬も注意しないと生き物を殺傷します。
農業とは、命を奪うことだということがしみじみとわかります。
だから、命を大事にするようになるのでしょう。

「農本主義が未来を耕す」という魅力的な本の中で、宇根豊さんはこう書いています。

ごはんを食べることは、米の命を奪うことではなく、稲が田んぼで生きることを保証することなのです。
一杯のごはんを食べないということは、オクマジャクシだけでなく稲3株10本ほどの苗の命を奪うことなのです。
「命をいただく」というのは、こういう生の世界に生きている同士の関係なのです。
私たちが「いただきます」と言うときに、たぶん食べものは生きものに戻ってこう言っているのでしょう。
「おかげで、この世界で生きることができたよ」。

私の場合、この感覚はまだ身体的なものにはなっていませんが、頭ではだいぶわかってきました。
じゃがいもを育てるためには、土を元気にさせないといけません。
一方で殺生をしながらも、一方で命が育つ土壌を豊かにしている。
少なくとも、土を殺すことだけはしてはいけないのです。
野草の思うままにしてもいけないのです。

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■お金、お金、お金

このブログで、しばらく「城里町の庁舎移転」から学ぶことを書いていますが、その活動が示唆していることの重要性を感じさせる事例は、しばしば報道されています。
たとえば、今日の朝日新聞の報道によれば、人口減少に直面している島根県浜田市では、
4月から破格の条件で県外のひとり親家庭を迎えることにしているそうです。
新聞によれば、月給15万円以上、中古車無償提供、一時金130万円。
条件は、親が介護現場で働くこと。
経済支援は1年限りですが、1世帯あたりの支援は最大400万円を超えるそうです。
ほかに、転居費などの一時金が30万円。
月給は最低15万円の月給のほか、市から養育費が月3万円。
契約通り1年間働けば、さらに一時金100万円が出るそうです。
住居は市が家賃月1万~3万円の公営住宅を確保し、空きがなければ民間の賃貸住宅を紹介し、2万円を上限に家賃の半額を補助するといいます。
車がない人にはネッツトヨタ島根が中古のコンパクトカーを無償提供。

過疎高齢化が進む浜田市の担当者は「保育所の待機児童はほぼゼロ。豊かな自然環境で子育てができる」と呼びかけています。
なんだか夢のような話ですが、この種の話はほかにもあると思います。

ひとり親家庭の住みにくい時代ですから、こうしたことが悪いとは思いません。
そういう選択肢があるだけで、安心する人は少なくないでしょうし、この制度で、いい意味で生き方を変えるチャンスを得る人もあるでしょう。
地域も元気になるかもしれません。

にもかかわらず、私はさびしくて悲しい気がします。
「お金、お金、お金」というイメージが拭えないのです。
札束で地元を黙らせて、原発を建設した話を思い出します。
もちろん原発の場合とはまったく違う話です。
要は、過疎化を避けたい自治体が、何とかして住民を増やすために、地域みんなで引っ越してきた人たちを支えようという話と受け止められるかもしれません。
しかし、私には何か違うような気がします。

もし私なら、転居者に金銭支援するのではなく、いまの住民たちが住みやすくなるにはどうすればいいかの知恵を、住民みんなで考えるようにします。
住民たち(行政職員ではありません)が豊かに幸せに住んでいる地域には、引っ越したくなる人も出てくるでしょう。
それでこそ、地域の生活は豊かになる。
お金の魅力で人を呼ぼうという発想が、私にはとても哀しくさびしいのです。
これまでの行政の発想や施策への問い直しがなければ、一時的には効果が挙げられても、おそらくますます事態は悪化するだけではないかと、他人事ながら心配です。

お金に依存していて、良いことはないのではないか。
私は、そう思っているので、悲しくてさびしく感ずるのです。
城里町の人たちから学ぶことはまだまだたくさんあります。
明日からまた「城里町シリーズ」を再開します。

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■節子への挽歌2754:愚鈍さと聡明さ

節子
私の場合、大切なことは、気づいた時にはすでに遅いのです。
聡明ではなく、愚鈍であるためでしょう。
それでも、まあ気づくだけ良しとするかと思うのですが、遅すぎた気づきであれば、気づかないほうがいいのかもしれません。
気づいて後悔することの辛さは、あんまり味わいたくない辛さですから。

最近、節子に関して、気づくことが多いのです。
なぜそんなことに気づかなかったのかということもあれば、たとえば食養の話を聴いていて、もっとそうしたことを知っていたら、と思うことも多いのです。
私は、あまりにも「生きること」に無知だったことを、最近、思い知らされています。

私は、過去の事にはあまり興味のない人間だと思っていましたが、どうもそうではなく、過去のことをくよくよ考えるタイプの人間なのかもしれないという「気づき」まであると、それこそ生きにくくなってしまうのです。

愚鈍さと聡明さ。
どちらが生きるには好都合でしょうか。
愚鈍であることの方がいいだろうと思っていましたが、どうも私は中途半端な愚鈍さしか持っていないようです。
最近生きにくさを感じますから。

夏目漱石の「草枕」の冒頭の有名な、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という言葉が、最近はとても心身に響きます。
愚鈍さは、やはり一人では生きにくい。
2人であれば、逆に生きやすくなる。
そんな気がします。
愚鈍な人は、伴侶を大切にしなければいけません。
一人になると、なぜか賢くなりたくなってくるようです。
しかし、聡明にはなれないのですが。

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■無意味であってもしなければいけないことがある

前々から話題になっていましたが、3月27日放送の「報道ステーション」(テレビ朝日系)で、古舘さんとコメンテーターの古賀茂明さんが、実に示唆に富む口論を展開しました。
次々と削除されているようですが、いまならどこかのユーチューブで見ることができます。
それに番組でのやり取りを書き下ろしてくださっているサイトもあります。
ぜひお読みください。
http://news.livedoor.com/article/detail/9941821/

事の良し悪しはそれぞれの判断にお任せするとして、こういう形で実態が顕在化することがまだあったことがとてもうれしく思います。
古賀さんの言動は、いろいろと評価は分かれるでしょうが、私は大きな拍手を送りたいです。
ガンジーの言葉を、私も多くのコメンテーターに読んでほしいと思っていたからです。
場があるのであれば、評論するだけでなく、主体的に語り、可能な範囲で行動すべきです。

古賀さんが番組で掲げたガンジーの言葉を掲載させてもらいます。
これは、古舘さんだけではなく、私たちにも向けられている言葉ですから。

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。

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2015/03/27

■節子への挽歌2753:自らの死期はわかるものだろうか

節子
昨日は「食養」をテーマにしたサロンでした。
手づくりの玄米おにぎりを食べながら、もし私たちにもう少しこうした分野の知識があれば、節子の人生も変わったかもしれないと、そんな思いを持ちながら、話を聴いていました。
節子を守れなかったことへの思いは、なかなか捨てられるものではありません。

食養に長年取り組んでいる栗原さんは、人には親からもらった強い身体を持っている人もいるというようなこともお話になりました。
私も、もしかしたら、そうかもしれません。
もうそろそろ現世はいいかと思いながらも、死ぬ気配を感じません。
私が目指す、言行一致にはならないのです。
困ったものですが、こればかりは仕方ありません。
健康や身体への注意はほとんどないのですが、節子が逝ってしまってからは、むしろ身体的には元気になってきています。
もちろんいろんなところに変調はきたしていますが、生命につながるような意識はありません。

参加者の太田さんが、人は死を予知できるのだろうかという話をしました。
昔の人は良く自らの死を悟ったという話がありますが、最近はさまざまな医療的・薬学的支援の中で、自らの死を意識できなくなってきているのではないかという話です。
太田さんの話は、いつも実に示唆に富んでいます。
その発言を聞きながら、私はここでも節子のことを思い出しました。
節子はたぶん自らの死を意識していたことでしょう。
あるいは、もしかしたら、自らの死を体験していたかもしれない、そんな気がしています。
死を予知した人は、強くなれるのでしょう。

私はどうでしょうか。
たぶん、その時になったら、自らの死を予知できるのではないかと思っています。
これまでも、もしかしたら死につながっているかもしれないと予感したことはあります。
しかし、それは頭で感じただけで、いつも間違いでした。
しかし、本当の死期というものは、心身を素直にもてば、予知できるような気がしています。
できればそういうようになりたいと思っています。

サロンの前後に、またいささかショッキングの話がおふたりから聞かされました。
朝に見た、朝ドラ「まっさん」の影響か、今日もまたなんとなく感傷的な日になりました。

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■城里町のみなさんから学ぶこと〔6〕

いよいよ問題の引っ越し作業に職員が取り組んだ問題の是非です。
まず結論を述べれば、私は、それは「当然のことであり、問題になること自体に違和感がある」と思っています。

問題を非常に単純化すれば、「職場の引っ越し作業は仕事に含まれるかどうか」です。
それは、仕事をどうとらえるか、職場をどうとらえるか、という問題です。
もちろん、自分の仕事であっても、外注することはあり得ます。
昨今では、かつては「家事」とされた家族の仕事も、外注化されてきています。

1999年の国際労働機関(ILO)総会において、ディーセント・ワーク(Decent work、働きがいのある人間らしい仕事)が提案され、それがILOの目標の一つになりました。
それまで量で考えがちだった(と私は捉えていました)労働組合が、ようやく質の問題に目を向けたかととてもうれしく思った記憶があります。
日本では協同総合研究所の菅野正純さんが、とても誠実にその言葉を考えていたと思いますが、残念ながら菅野さんは急逝されてしまいました。

「仕事」をどうとらえるかは、さまざまな論考があります。
そして、それは、私たちの生き方の問題です。
さらに、社会とは何なのかということにも深くつながっています。
このテーマは、これまでもこのブログで散発的に書いてきましたが、今回はちょっと違った話から始めたいと思います。
まずは、たまたま今朝、読んだ「談」という公益財団法人たばこ総合研究センターの機関誌に出ていた山下祐介さんの言葉を紹介したいと思います。

現代の社会システムは家族や地域をどんどん解体させて、一人ひとりを「労働者」に仕立てることで、市場経済のなかで有効に使え、すべての人たちが国家の成長に寄与するように仕向けすぎてきた。しかし、そのために活き活きとしていた社会が弱り、衰退し、あるいは消滅してしまうほどだんだんと死にかけてきて、場合によっては自らの命を絶ち始めている。

ここで私が問題にしたいのは、「労働者」という概念です。
このシリーズの〔4〕で、「消費者」という概念(言葉)をかなり否定的に扱いましたが、それと対をなしているのが「労働者」です。

近代の発想は、「要素分割」です。
全体を把握するのではなく、部分を対象にしていくことで、全体を知ろうとするわけですが(「要素還元主義」)、それは同時に、部分を操作することで全体を操作するという発想に繋がっていきます。
それは限界があるばかりか、問題を起こすのではないかという議論が当然起こってきましましたが、近代の合理性の思想はなかなか変わらず、事態はますます要素還元主義に向かっているようにさえ思います。。

いうまでもありませんが、私たちは「部分」を生きているのではなく、「全体」を生きています。
労働者や消費者ではなく、生活者だということです。
もちろん、時に「消費」し「労働」するとしても、そこに「者」をつけてしまうと、思考は呪縛されます。
言葉は、人の思考を抑え込んでしまう力があるからです。

何やらまた、小難しく、さらに横道にそれだしていますね。
すみません。
しかし、今回言いたかったのは、「仕事」をどうとらえるかです。
そして、職場ってなんだろうか、という問題です。
きれいに掃除された「檻」の中で、与えられた「課題」をこなすだけの「労働提供者」になることは、私には向いていません。
私がまだ会社で働いていたころは、職場の掃除も自分たちでやっていました。
子どものころは、学校の教室の掃除も、もちろん生徒たちでやっていました。
時にガラス窓をあり、けがをすることもありましたが、それもまた楽しかった記憶があります。

長くなったので、続きはまた明日に。

ちなみに、山下さんは、「生態社会学」を提唱していますが、昨年出版された「地方消滅の罠」(ちくま新書)はとても示唆に富んでいます。
それと、この「談」という年3回発行される雑誌は、私がほぼすべてを完読している唯一の雑誌です。
エディターの佐藤真さんの編集がとても示唆に富んでいるからです。
このような機関誌を出し続けているJT(日本たばこ産業)を敬服しています。
余計なことを書き加えてしまいました。

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2015/03/26

■節子への挽歌2752:チューリップとつくしんぼ

節子
畑がだいぶ広がってきました。
その一方で、まだ道沿いの花畑は手入れがなかなかできません。
そのなかで、ようやくチューリップが一つだけ花をつけました。
なかなか畑に来られずに水やりが不十分だったせいか、みんな短く育ってしまいました。
昔写真を送ってもらった、ネパールのチューリップを思い出しました。

Tulip20150328

今日は娘にも少し手伝ってもらいましたが、娘が畑の片隅に、つくしんぼを見つけました。
ともかく私は、例年のように野草に占拠されそうな畑地を取り戻そうと頑張りすぎているためか、見える世界が狭くなっているようです。
つくしんぼを愛でている余裕が失われているとしたら、なんのための畑仕事かということになりかねません。
いささか反省しました。

Tukushi

しかし実際にやってみるとわかると思いますが、土を耕し、地下深く張り巡らされた笹の根っこと対峙するのはかなり疲れます。
成長した笹も結構厄介で、ていねいに切ればいいのですが、面倒なのでかなり大雑把にめちゃをやることも少なくありません。
先日は、鎌であやうく脚を切りそうになりました。
幸いにズボンが切れただけで、脚は大丈夫でしたが、ズボンが見事に切れていたのに後で気づいて感心しました。
注意しないといけません。

もう10坪くらいの畑はできました。
消石灰と苦土石灰をもまきました。
いよいよ野菜を植え付け、来週からは花畑ゾーンの作業を始めようと思います。
苗を買うと高いので、花も種からまいてみようと思います。
形が出てくると少し楽しくなります。

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2015/03/25

■節子への挽歌2751:感傷的なひととき

節子
今日の東京は空がとても青いです。
湯島の実盛坂の下で、いつも空を見上げます。
ビルの合間にしか見えない、小さな空ですが、それが昔からの私の習慣なのです。
その習慣が始まったのは、エジプトに行ってからです。
エジプトの空の青さが、とても心に残ったからですが、東京の空も時にエジプトを思い出させるのです。

ベランダに無造作に置いていた小さなシクラメンが、花を咲かせました。
もうだめだと思って、外に出したまま冬を越したのですが、小さな花を咲かせてくれました。
今度もっといい鉢に植え替えようと思います。
湯島の生き物たちも、手入れ不足にもかかわらず、頑張ってくれています。

今日は、来客に時間を合わせずに、かなり早めに湯島に来ました。
昨夜、ちょっとよくない夢を見てしまい、早く目覚めてしまったのです。
多くの夢は、起きるとすぐ忘れるのですが、忘れられない夢もあります。
そんな時は、夢とはいったい何なのか、ついつい考えてしまいます。
それも、その夢に関わることが、朝起きたら起こっていた場合には、なおのことです。
今日がまさに、そういう日でした。
「予兆」でしょうか、「シンクロニシティ」でしょうか。

今日の東京は、風が冷たいですが、部屋から外を見ていると春を感じます。
実盛坂の下から見る空よりも、部屋から見る空は、青さが弱くなります。
もちろん気のせいなのですが、そもそも環境の風景は「気」によって出現します。
ですから同じ風景も、どこから見るかで変わってきます。
私は、実盛坂の下から見上げる、ビルの合間の小さな空が好きなのです。

実盛坂は、節子と何回も何回も上り下りしたところです。
体調を悪くしてからの節子は、長い階段の途中で、少し休んだものでした。
そして、ついに登れなくなったのです。

湯島の部屋は、節子がいなくなってから、少し殺伐としてきています。
東日本大震災で、キャビネなどはずれてしまっていますが、放置したままです。
壁から落ちたリトグラフは、最近、やっと壁に戻しました。
しかし、何かが欠けています。
それが何かはわかりませんが。
以前は、ここにたくさんの人が集まっていました。
私も毎日出てきて、いろんな人たちと会っていました。
しかし、今はそういうにぎやかさはありません。
一人でオフィスに座っていると、なにかとても寂しさも感じます。

一番大きな変化は、窓からの風景をさえぎる大きな建物が建設されだしていることです。
これでもう夕日は見られなくなりました。
節子がいたら、悲しむでしょう。
この窓から見る夕日は、とても美しかった。

今日は。なぜかとても感傷的な気分です。
NHKの朝ドラの「まっさん」を観たからかもしれません。
死を悟ったエリーが、節子に重なって見えたのです。
書いていたら、また思い出してしまいました。

青い空に癒してもらうほかありません。

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2015/03/24

■城里町のみなさんから学ぶこと〔5〕

今回は、あまり異論がないであろう、「備品の再活用」について考えてみます。

ここで重要なことはなんでしょうか。
1億3千万円と見積もられていた備品代が、50万円で済んだということに価値があるのでしょうか。
しかし、視点を変えれば、1億3千万円の市場が消えてしまったとも言えるわけです。
備品を購入してもらえると期待していた会社があったかもしれません。
その会社の人の立場から言えば、それは決してうれしいことではないはずです。
お金を消費するということは、経済を活性化するということです。
有名なニューディール政策は、ある意味で、「無駄な消費」を創出することで、経済を回復させたのです。
したがって、城里町の備品代節約は、喜ばない人もいたはずです。
前の記事で、「備品の再活用に関しては、反対する人は少ないでしょう」と書きましたが、必ずしもそうではないかもしれません。
ここに、経済のややこしさがあります。
つまり、お金の消費は、誰かにとっての収入なのです。

ですから、備品の再活用に関しては、金銭の次元ではない次元で考えることが必要だと思います。
何人かの方が書いてくれていますが、要は、「物」をどう扱うかです。
「消費財」という言葉がりますが、ここでも私は「消費」という言葉に少し抵抗があります。
備品を製作した人たちが、廃校に放置された様子をもし見る機会があれば、たぶん悲しむでしょう。

昔、トヨタ自動車のエンジニアたちの研究会に関わらせてもらったことがあります。
当時は、自動車の燃費を向上させるために、軽量化を目指しての部品のプラスチック化が大きな課題でした。
ある時、その活動に取り組んでいる人が、廃車の解体工場に見学に行ったのです。
彼は、そこで自分たちのつくった自動車が、無残に破壊されているのを目にしました。
無節操なプラスチック化によって、かつてのような解体ができなくなっていたのです。
その人は、私にこう言いました。
これまでは、ともかくできるところはみんなプラスチックに置き換えようと考えていたが、解体のことも考えながらプラスチック化を進めたい、と。
感激しました。
私が、トヨタ自動車が好きになったのは、その人のその言葉のせいです。

あんまり関係のない話を書いてしまったかもしれませんが、物にも「いのち」はあるのです。
先生たちも、長年愛用した机などの備品が朽ち果てるのは悲しかったでしょう。
私たちは、物を粗末に扱う文化に浸りきっていますが、それに気づかなければいけません。
物を粗末に扱う人は、人も粗末に扱うことになりかねないからです。

城里町の備品再活用は、町役場の人たちに、そうしたことを気づかせる契機になったかもしれません。
いやそうでなければ、いけません。
それは1億3千万のお金よりも、ずっと大きな価値のあることだろうと、私は思います。

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■節子への挽歌2750:セージ

節子
今日は畑に行きました。
最近ようやくコツがつかめてきました。
要は無茶をせずに、休み休みやるというだけの話ですが。

ゆっくりと作業すると、気づくことも少なくありません。
小さな生き物にも気づきます。
ようやく10坪くらいが、畑らしくなってきました。
今日はそこに消石灰をまいてきました。

昨年は、ノビルがたくさん自生していたので、それを料理して食べましたが、あんまり私の好みではなかったので、今年は刈り取ることにしました。
今年の目標は、畑らしくするということなのです。
一部を残したりしていると、なかなか作業は進まないのです。

昨年まで、周縁部には紫色のセージが群生していました。
セージは花も香りもいいのですが、何しろ増えすぎてしまい、大変だったので、昨年、すべて根っこから抜いてしまいました。
そのせいか、今年はほとんどなくなってしまいましたが、なくなるといささかさびしい気がします。

セージは、抗酸化作用を持つ薬草としても有名ですし、ハーブティにもなります。
私はハーブはあまり好きではないのですが、セージやランタナの香りは大好きなのです。
それで、方針を変えて、今年はきちんとセージを育てることにしました。
放置するのではなく管理するということです。
畑の一画をきちんとセージ畑にすることにしました。
これは非常にいい考えです。
セージを退治すべき野草と考えれば、そこを畑にするために手間暇かかりますが、群生地をセージ畑と考えれば、手間暇はほとんど考えなくてもいいのです。
つまり発想を変えただけで、何もせずに、畑が広がったと言えます。
こうやってローマ帝国は領土を広げてきたのだなと考えたりして、今日の農作業は幸せのうちに終わりました。
つまり、セージにわが家の畑では「市民権」が与えられたのです。
ちなみに、セージは、古代ローマ時代より薬草やお茶として使われていたそうです。

しかし問題は、昨年かなりのホロコーストをしてしまったので、セージがきちんと復活してくるかどうかです。
思いつきで、勝手に野草を絶滅させてはいけません。
畑から学ぶことは多いのです。

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2015/03/23

■沖縄の翁長知事にエールを送りたいです

沖縄県の翁長知事が、辺野古の海底ボーリング調査の停止を沖縄防衛局に指示し、従わない場合は埋め立てに必要な岩礁破砕許可を取り消す意向を表明したと報道されました。
菅官房長官は相変わらず、「法治国家だから粛々と進める」と繰り返し語っているのでしょう。
中谷防衛相も「日本は法治国家」と話していましたが、「法治国家」とはいったい何なのか。
法は権力者のためにだけ、あるのではありません。
都合のいい時だけに「法治国家」を持ち出すのは、いかにも権力者の身勝手さです。
私の学んだ「リーガルマインド」は、法を支配の道具に使うなということだった気がします。

だいぶ前に書いた「私が尊敬する政治家は鳩山由紀夫さんです」という記事に、先日、こんなコメントをいただきました。
コメントを読んでもらえばいいのですが、全文を再掲します。

私は沖縄県民です。
私も鳩山由紀夫さんについては好意的に受け止めています。
クリミヤのことなどは深くは知らないので沖縄関係のことでしかわかりませんが・・・。
辺野古について県外移設を求めてもいいことを沖縄県民に示した功績は大きいと思います。
これまで基地は県外には持っていけないのだから実を取ることに意識を持っていこうとする勢力が県政をとることもありました。
しかし、今はもう違います。鳩山さんのおかげです。
マスコミ人の中には鳩山さんのことを沖縄に無駄な期待を抱かせて無責任と沖縄県民は思っていると言う人がいます。
それは違うと思います。
逆に沖縄県民の目を覚まさせたことに対して本土の人の中に鳩山さんを疎ましく思う気持ちがあるのではないかと思います。(サンデーモーニングで大宅映子さんが言っていました。)
この記事にあるように鳩山さんを「国民益で考える政治家」と捉えると、自分の利益で動く多数の政治家の中で異端児・宇宙人扱いされるのがわかります。
沖縄の人からのコメントだったので、私にはとてもうれしいものでした。
やはり当事者の判断が、一番大事だというのが私の考えだからです。
特にうれしかったのは、「県外移設を求めてもいいことを沖縄県民に示した功績」というところです。
つまり、鳩山さんの発言で、呪縛されていた「意識」が解きほぐされたということです。

エンツェンスベルガーという詩人の書いた「意識産業」という本が、1970年代に日本でも話題になりました。
私が、少なからず影響を受けた本です。
その本を思い出して、書庫から見つけ出しました。
その本の帯に、こう書かれていました。
「現にある支配関係を永遠化しようとする意識産業の搾取的本質を告発し言論の自由への考察を深めた話題作」。
私は、当時から「情報化社会」や「文化産業論」には、大きな危惧を感じていました。
当時書いた、そうした動きへの反論も、どこかに残っているはずです。
しかし、時代の流れは、私が危惧した通りの方向に進んできたように思います。

もう一つ、この人のコメントで、ぞっとしたことがあります。

逆に沖縄県民の目を覚まさせたことに対して本土の人の中に鳩山さんを疎ましく思う気持ちがあるのではないかと思います。
これには、私は反論したいですが(そこまでの意識さえもないと思うからです)、私たち「本土の人」が沖縄の人にとって、どう思われているのかが伝わってくるからです。
私たちは、もっと沖縄について知ろうとしなければいけないと、改めて思いました。
鳩山さんにだけ期待していてはだめなのです。

いつかこの方に会えればと思っています。

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■節子への挽歌2749:「いま、ここで、行動しなくてはならない」

節子
朝、広島の折口さんが電話してきました。
折口さんは、私のブログなどを読んでくれていて、私が元気がないと、すかさず電話してくれるのです。
不思議なことに、私はまだ折口さんには一度もお会いしたことがないのですが、何か並々ならぬ縁を感ずるほど、不思議な縁の人です。
折口さんは、このブログも読まれているでしょうから、あんまり書くのははばかられますが。

折口さんは、私が書いたガマガエルの記事を読んで、電話してくれたそうです。
折口さんが広島に40年ほど前に転居された時、なんと25㎝ほどの大きなカエルに出会ったと話してくれました。
ちなみに昨日のガマガエルは、たしか15㎝ほどでした。

櫓口さんの電話に始まり、今日はちょっと「良い日」になりました。
山口の東さんからも、うれしいメールです。
私の一言が、ちょっと役立ったかもしれません。
柴崎さんからもメールが来ました。
理由は書きませんが、ちょっとこれまでとは違ったメールの表現でした。
それもまた私にはうれしいことなのです。

午後から少し出かけていたのですが、そこでも少しだけ良いことがありました。
そして帰宅してパソコンをひらいたら、とんでもなく「良いこと」がありました。
3月28日に開催する、大学生の話し合いフォーラムの事務局をやっていますが、そこに参加したいという大学生の方からのメールです。
そこに書かれて内容が、とてもうれしく、元気が出たので、勝手に一部、引用させてもらいます。

半年ほど前から、些細なきっかけでCWSプライベートを拝読させていただき、ほっとしたり、世の中への歯がゆい思いがしたりして、いつもこころが動かされています。
僕ももう少し、「正直に」生きようと思っているのですが、なかなかうまくいきません。
そんなときに、佐藤さんの文章の、ことばの一つ一つが僕のあしたの、そして今日の励みになっています。
ありがとうございます。
僕はいままで何かの集まりに一人で参加するようなことは、一度もありませんでした。
見知らぬ人といきなり打ちとけて話し合うことに抵抗があったのです。
それは今も変わりませんが…
それに、今回のテーマに強く関心があるわけではないのです。
しかしどういうわけか、
「いま、ここで、行動しなくてはならない」ような…、そんな気がしたのです。
節子
こんなうれしいことはそう起こるわけではありません。
「いま、ここで、行動しなくてはならない」
それでついついうれしくなって、挽歌にまで書いてしまいました。

節子がいなくなった今も、とてもささやかではありますが、少しは誰かの役に立つ生き方ができているような気がして、今日はとても気分がいいです。
まだこれからも良いことがありそうな気がします。

そういえば、節子もよく知っている杉本さんからも電話をもらいました。
明後日、お会いします。
ともかく、今日は良い日です。
もしかしたら、昨夜のガマガエルがいなくなったおかげかもしれません。
最近の私の不調は、すべてあのガマガエルの仕業だったに違いありません。
そう思うことにしましょう。

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■城里町のみなさんから学ぶこと〔4〕

そろそろ「みなさんへの質問です」に関する私の意見を書こうと思います。
なお、この間、フェイスブックでもいろんなコメントをもらいました。
私のフェイスブックは公開なので、次から読めると思います。
https://www.facebook.com/cwsosamu/posts/10200245669260288?comment_id=10200247428184260¬if_t=like

〔3〕で紹介した埋田さんのコメントで、私が言いたいことのほぼすべてが言い尽くされていますので、少し違った形で私見を書くことにします。
まずは論点の整理です。

論点はいくつかありますが、備品の再活用に関しては、反対する人は少ないでしょう。
廃校に残されている備品は、たぶん倉庫に眠ったまま、いつか費用をかけて廃棄処分される可能性が強いからです。
したがって、ほとんどの人は反対しないでしょう。
しかし、私たちの実際の生活は、必ずしも、そうではないのです。
私たちは、まだ使えるものを、デザインが古いとか、機能的に不十分だという理由で廃棄しています。
廃棄するには、自らが直接的に費用負担することは少ないですが、当然ながら「費用」は常にかかっています。
ただ、それに気づいていないだけです。
しかも、経済成長志向の社会では、このことは「無駄」だとは意識されずに、奨励されています。
「消費」こそが生産を支えるからです。
ちなみに、今も各地に「消費者の会」なる組織がありますが、時代錯誤も甚だしいと、私は思っています。
自らを経済成長支援チームと表明しているわけで、せめて「生活者の会」くらいに改名する「時代感覚」は持ってほしいと思っています。
かつて消費にストップをかけるかもしれないと期待した「コンシューマリズム」も、今ではすっかり変質してしまっています。
これに関しては改めてもう少し詳しく私見を書きます。

備品の再活用には異論が少ないだろうと書きましたが、経済成長主義者は、実際にはこういう生活スタイルを自らは実践していません。
そうしたことを考え直す契機にできれば、美j\本妻活用の意味はさらに大きなものになります。
古い備品を使うことに抵抗があるか人もいるかもしれませんが、役場の総務課の人は、自分が使う机は廃校の校長の机(「校長」と机の横に書かれていました)だったと、テレビではうれしそうに話していました。
備品の再活用の意味は、たぶん「予算削減」ではないところに、大きな意味があるように思います。

引っ越し作業を自分たちでやったというところには、さまざまな意見があるでしょう。
情報をきちんと押さえてはいませんが、職員には休日出勤手当を支給したのか、シルバー人材センターは有償だったのか、という問題があります。
後者、つまりシルバー人材センターは間違いなく有償でしょう。
日本では「ボランティア」というと「無償」と捉えられますが、それこそ「金銭社会に埋没した発想」です。
ボランティアとは、自発性の意味であり、私は、強制されない活動と受け止めています。
つまり、自分で仕事を選べるということです。
前者に関しては、「金銭手当の支給」か「代休付与」かという選択肢があります。
私は、たぶん「代休」かあるいは「無償」ではないかと思いますが、確かめたわけではありません。
そこで問題は、「もし金銭換算したら、業者に外注するよりも高くなったのかどうか」、そして「もし無償で働かせた場合は、搾取になる」ということです。
私見を述べれば、そもそもそういう発想が問題だと思います。
これは、「仕事観」、あるいは「組織との関係」、つまり「生き方」に関わる問題です。

思いつくだけでこれだけの問題が示唆されています。
明日から、一つずつ私見を書いていきたいと思います。

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■城里町のみなさんから学ぶこと〔3〕

この問いかけに関して、数名の方からコメントなどをいただいていますが、個人あてに来たご意見のなかに、とても共感できるものがありました。
埋田さんからのものですが、ご本人の了解を得て、全文を紹介させてもらいます。
私も、いくつか気づかせてもらいました。

興味があった記事でしたので、私も、私自身の視点(子育ての視点)での考えをお伝えしてみようと思いました。

新町長さんの決断と実行力は、素晴らしいと思いました。

お金は便利です。困りごとを簡単に解決してくれます。
お金を出せば、新品の備品が手に入り、引越し業者がプロのテクニックで
安全に、スピーディーに作業してくれることでしょう。

子育てをしていても、便利さにうっかりと手を出してしまいそうになることがあります。
例えば、小学校で彫刻刀が販売された時に知ったのですが、最近の学童用の彫刻刀には
「安全ガード」という装置がついていて、子供が怪我をしない為の工夫がされています。
大抵の親は、「あぁ。安全!便利!」と、何の疑問も抱かずそれらを買い与えます。
刃物を扱う機会の少ない子供たちが「刃物」を体験する貴重な機会なのに。
怪我をするかもしれない、という体験でしか、教えられないことがあると思うのですが。

城里町で行われた引越しも同じだと思います。
重たい荷物を持って、腰でも痛めたら誰が補償してくれるでしょう。
業者に頼んでおけば問題は起こりにくいでしょうね。
しかし、彫刻刀と同じように、大切な機会を失うと思うのです。

重い荷物は、きっと力持ちの若い男性職員が協力し合って運ぶでしょうし、
力仕事が苦手な女性職員や年配の職員の方は、自分にできる仕事を探して作業するでしょう。
そうして得られた、仲間意識や互いをいたわり合うことこそ、
行政を支えていく上で最も大事な意識を育ててくれるものだと思います。

今後、この作業に参加された職員のみなさんは、まずお金で解決をするという考えは捨てるでしょう。
他に使えるものはないだろうか?お金以外に解決する方法はないだろうか、と知恵を出し合うと思います。
小さな知恵を出し合う習慣が日常になれば、これまでお金でしか解決できないと思い込んできた様々なことが、新しい考え方で議論されるようになると思います。
互いに気遣うことも増えるはずです。
仕事に行き詰っている人、困っている人に気付けるようになります。
助け合い、いたわり合う感性は、町民の生活にも向けられるはずです。
血の通った行政が育つと思います。

いいこと尽くし!と思いました。
そこで、この件について私の考えを夫に伝えてみました。
大部分で、私の意見に賛成してくれましたが別の考えも話してくれました。

勤め先で時々起こる出来事らしいのですが、一個100円の単価の部品を100個手に入れようとしたとします。
1円でも安いものをと思い、1時間かけて探し続けたら、単価99円のものを見つけることができました。
部品の購入代金としては100円得した訳ですが、その社員には1時間2000円の人件費がかかっている。という話です。

こんな話をきくと、手間暇かけて安さを追求するより、さっさと決断して、時間は有効に使った方がいいな、と思うわけです。

「お金」で早急に解決した方が、より有益な場合もあるし
「手間暇」かけて解決した方が、より有益な場合もある。
どちらの解決策を優先させるのか、常に判断をし続けていくことが大切なのだと夫の話を聞いて思いました。

新町長さんの、今回の決断については、私は大賛成です。素晴らしいと思いました。
でも、次の決断の時には、また考えをリセットして、より有益な解決策を探し続けて欲しいと思います。

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■節子への挽歌2748:相性

節子
昨夜、庭のガマガエルが騒ぎ出しました。
せっかく生んだ卵を私が処分してしまったからです。
昼間はいなかったのに、夜になって池に戻ってきたら、池の水もなくなっていて、卵もないので、大騒ぎをし始めたのです。
大きな声で鳴きだしました。
近所迷惑なので、捕獲して、手賀沼に放しに行ってきました。

不憫ではありますが、彼女のおかげで、池の魚がまた全部食べられてしまったので、仕方ありません。
気づかなかったのですが、池の水自体がかなり汚されてしまって、エビもまた全滅です。
そういえば、最近、池の生物が全滅を重ねているのは、ガマガエルの生だったのかもしれません。
放射線汚染でも、ハクビシンでもなかったのです。

ガマガエルを飼ったらどうかという考えもありますが、ガマガエルとは相性が良くありません。
それに、むすめが許しません。
むすめのカエルきらいは尋常ではありません。
何しろ父親である私よりも、カエルが嫌いなのです。
ですから、多数決で決めても、2対1で、ガマガエルには勝目がありません。

まだどこかに冬眠している仲間がいるかもしれませんが、わが家の周辺にはたぶん蛇もいるので、ガマガエルには安全な住処ではないことをわかってもらいたいです。

それにしても、人は勝手なものです。
私は、わが家の庭にカニを生息させたいと願っています。
これまでも試してみたことがありますが、やり方がまずくて成功していません。
カニなら大歓迎なのに、ガマガエルはどうしてこうも嫌悪してしまうのでしょうか。
私は、爬虫類がどうしても好きになれないのです。
しかし、世の中には、爬虫類をペットにしている人もいます。
犬や猫ならともかく、家の中に蛇やカエルが同居していたら、私ならぞっとしてしまいますが、カニをみてぞっとする人もいるのかもしれません。
やはり「相性」というのがあるのでしょう。

人にも「相性」はあります。
私は、なぜ節子と「相性」が合ったのでしょうか。
考えてみるととても不思議です。
さほど「いい女」でもなく、才色兼備では全くなく、堅物で退屈で、感性も私とはかなり違い、性格もとりわけ良いわけでもなく、取り柄と言えば、「うそをつかない」だけしかなかったのですが、なぜか実に相性が良かったのです。
節子に限りません。
人にはなぜか「相性」がある。
「相性」って、いったいどこから来るのでしょうか。

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2015/03/22

■城里町のみなさんから学ぶこと〔2〕

フェイスブックやメールでコメントをもらっていますので、私の意見はさらに先延ばしにして、私の体験したことを今日は書くことにします。
もう10年近く前になるかもしれませんが、青森県の三沢市の「花いっぱい運動」の相談を受けたことがあります。

青森県の三沢市では、2001年ころから、まちづくり活動の一環として、花と緑のまちづくり活動補助金制度をつくって「花いっぱい運動」を展開してきました。
その補助金制度が来年からなくなることになったのですが、これまでの活動成果を進化させ、まちづくりに発展させていきたいということで、住民による「花と緑のまちづくり推進委員会」が発足し、行政との検討会が開催されたのです。
そこに、参加させてもらいました。

まず、全員の自己紹介がありましたが、5年間の資金助成の成果は見事に出ているようで、多くの方が花づくり活動の意義を実感しているようです。
ただ残念ながら、これまでの支援がほとんど資金助成だったためにみんなの関心がまだお金をどう工面するかにあることでした。
これがおそらく日本の住民活動や市民活動の最大の問題です。
そこから抜け出ないかぎり、今のお金万能の社会は変わっていかないでしょう。

私はまずみなさんに「自分の家の庭の花づくりに助成金を当てにしますか」と質問しました。
自分の家の花づくりと自分の町の花づくりとどこが違うのか。
この町が「私の町」だと思えれば、ごみなど捨てないでしょうし、花も植えたくなるでしょう。
その意識のないまちづくりは、他人事になってしまいます。
補助金があるから花いっぱい活動をしているのか、自分たちの住んでいるまちを花でいっぱいにしたいのか。
そこに「まちづくり」を考える大きなヒントがあるはずです。

その後の動きは、とてもうれしいものでした。
住民たちが、それぞれにできることや提供できること(たとえば花の苗を育てる場所など)を出し合って、補助金がなくても、「花いっぱい運動」がまわりだしたのです。
そして1年後には、住民たちが自分たちで住民に呼びかける公開フォーラムまで開催したのです。
お金がなくてもできることはたくさんあります。
いや、お金がないからこそできることもあるのです。

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■節子への挽歌2747:ジャガイモを作付けました

節子
今日も「孤独な農作業」をやってきました。
少しずつですが、野草の生息地を耕して、畑に近づけています。
なにしろ空いている宅地を利用しての畑仕事ですので、大変です。
土ができたころには、家が建つことになり、畑を諦めなければいけなくなる可能性は大きいです。
しかし、節子が始めたところなので、まあもう少し続けようと思います。

先日、畝を3列つくっておいたのですが、そこにジャガイモを植えました。
ネギの苗も買ってきたのですが、とりあえず仮植えをしました。
節子がやっていたころのことを思い出しながらですから、いかにも頼りないのですが。

土を耕し、笹の根っこを切り取りながら、農業とは生命体としての地球を傷つけることだなという思いがします。
まだ動物類にはあまり出会いませんが、昆虫の幼虫など出てくると、殺傷してしまうことも少なくありません。
農業とは、生と死に深くつながっていることも実感します。
本来、生きるということは、他者の生と死の上に成り立っているのでしょう。
そういういうことが、とてもよくわかります。
会社で仕事をしていては、そんなことには気づきようもありません。

節子と一緒に畑をやっていたころは、私は大雑把な仕事をし、節子が細かな仕事や作付をしていました。
で飽きると、後は頼むよと言ってやめてしまっていました。
一人でやるとなると、そういうわけにもいきません。
後片付けまでやらなければいけません。
そういうことが、いかに苦手かがよくわかります。

ジャガイモも、本来は、種イモの芽の状況に合わせて、いくつかに分割し、切断面に石灰をかけて植え込むのでしょうが、面倒なので、種イモ一個ずつをそのまま埋め込んでしまいました。
さてさてうまくいくでしょうか。

それでも次第に畑らしくなってきました。
荒れ放題になっていたところを、ここまでもってくるのに3年かかりました。
こういう時間感覚は、とてもいいです。
少しずつですが、私もようやくそうしたリズムに少しなれていけそうです。

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■節子への挽歌2746:ガマガエル

節子
庭の池にたくさんのカエルの卵が発見されました。
そういえば、先日、池がバシャバシャしていたので、もしかしたら帰るかなと思っていたのですが、案の定、カエルのようです。
もしかしたら、以前、魚が全滅したのは、このカエルのせいかもしれません。
なにしろ大きなガマガエルなのです。
前にも一度、見つけたことがあり、捕獲して、近くの手賀沼に放してきましたが、その後、しばらく見かけなかったので、もういなくなったとばかり思っていました。
まだ仲間がいたようです。

カエルが大嫌いな娘から、池を埋めてほしいといわれているのですが、私は池が好きなのです。
しかし、手入れをあまりしていないため、荒れ果ててしまっています。
というよりも、そうした荒れ果ててた感じの池が私は好きなのですが、あまりに放置していたので、ガマガエルの住処になってしまったのかもしれません。
水をなくしたのですが、残念ながら当のガマガエルには出会えませんでした。
実はこの池は、2段式のセットになっていて、上の池から下の池に水が流れるスタイルなのですが、その2つの池を流れる水路にカニの隠れ場をつくったり、水路の下に隙間をつくったりしたのですが、もしかしたらそこに隠れているのかもしれません。
もはや私の手には負えません。
しかし、その奥の方にガマガエルが住んでいるとしたら、魚はまた食べられてしまいます。
解決するには、この池そのものを一度解体しなければいけません。
さてさて困ったものです。

わが家は、そもそも15年ほど前まで、斜面林の一部でした。
それを宅地化したので、そこに先住していた生物には迷惑な話だったのです。
へびもいれば、ガマガエルもいるわけです。
モグラもいます。
もう15年近く経過していますが、彼らはいまなお健在なのです。
何しろ彼らの方が先住者ですので、私の立場は弱いわけです。

さてしばらくはガマガエルとの出会いに注意しなければいけません。
アオガエルとちがって、ガマガエルとの出会いは、決して楽しいものではないからです。

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2015/03/21

■節子への挽歌2745:土と語る男を目標に

節子
お彼岸なのでお墓に行きました。
庭に咲いている水仙とミモザも供えてきました。
節子が好きだったミモザは、数年前に枯れてしまいましたが、2代目のミモザが大きく育ち、花をたくさんつけています。

庭の花木もだいぶ元気が出てきました。
手入れしないとダメな花はかなり減ってしまいましたが、その分、手入れなしでも大丈夫な水仙が広がってきています。
また花の季節、農作業の季節です。

今日は畑用のジャガイモの種イモを買ってきました。
昨日お会いした原田さんが、我孫子の土壌にはメイクインが合っているとアドバイスしてくださったので、メイクインを選びました。
我孫子の土壌はかなり放射線汚染しているので、地中で育つものはやめておこうと思ったのですが、自然を信ずることにしました。
それに、ジャガイモの栽培はこれまでも何回もしているので、手始めの作物としては安心です。

ついでに河津桜を植える鉢も一回り大きいのを買ってきました。
節子が元気だったころ、節子の生家に行った時に、そこでかなり大きな「盆梅」をやっている人からいろいろと見せてもらったことがあるのですが、それを思い出して、ミニ盆桜ではなく、ちょっと大きな盆桜にしてみようと思ったのです。
庭の河津桜は、いまさら小さくはできませんので。
一人なので続くかどうかは不安ではありますが。

土と花々に付き合いだせば、きっと心身の調子も戻ってくるでしょう。
さまざまな雑念からも解放されるかもしれません。
「狼と踊る男」にはなれませんが、「土と語る男」を目指したいものです。

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■城里町のみなさんから学ぶこと〔1〕

昨日の時評編で、城里町の庁舎移転の話を書き、それに対してどう思うかを問いかけました。
同じ記事をフェイスブックにも載せましたが、コメントして下さったのは2人だけでした。
対照的なコメントでした。
もっといろんな人の意見を知りたいと思い、私の意見を書くのはもう少し先に延ばすことにしました。
ぜひみなさんの意見を私まで送ってください。
アドレスは、qzy00757@nifty.comです。

私の意見を先延ばしにする代わりに、ちょっと違った問題をもう一つ書くことにします。

先日、あるビジネススクールでみんなに問いかけた問題です。
静岡県の三島に、行政と企業と住民と三者でつくった「グラウンドワーク三島実行委員会」というのがあります。
日本におけるグラウンドワーク運動の先駆的な組織です。
そこの活動のひとつとして有名な事例があります。
行政が行うと施設整備に3000万円かかると見積もられ、財源不足で整備されないでいた新興住宅地の公園を、市民と企業と行政の協力によりなんと5万で作ってしまったという話です。
金額は資料によって少しずつ違っているのですが、ともかく桁が3桁も違うお金しかかからなかったというのです。
さて問題です。
この活動で生まれた価値はなんでしょうか。
これが、講義での私の問いかけです。
ここに、マネタリービジネスとソーシャルビジネスの違いの本質があると、私は考えているのです。

この問題と同じように、城里町の庁舎移転の収支バランスを、金銭以外の要素も入れて考えるとどうなるでしょうか。
金銭以外の要素も入れて、収支バランスや生産性を考えると金銭だけで考えるのとは違った世界が見えてきます。

蛇足を追加します。
たまたま先ほどテレビを見ていたら、寅さんの映画をやっていました。
10分ほど観ていたのですが、こんなやり取りがありました。
寅さんが、隣の工場の社長に、社長は上流階級だと言います。
社長は、そうかなあ、俺はそんな風には思えないと言います。
それでみんなが、では寅さんはと問いかけます。
寅さんのおじさんが、上流階級はカラーテレビを持っているが、寅さんは持っていないので上流ではないと言います。
寅さんの義弟が、異論を唱えます。
物を持っているかどうかではなく、もっと大切なものがある、と。
結局、寅さんはテレビは持っていないが、「人への愛」があるということになり、寅さんは上流階級という結論になるのです。
書いてしまうと面白くありませんが、それが実に楽しく語られるのです。
これから学校で道徳教育が制度化されていきますが、ぜひ寅さんシリーズを必修教材にしてほしいです。
私もまだ全編は観ていないですが、どうも観たほうがよさそうです。
元気が出てくるかもしれません。
忘れている大切なことを思い出させてくれるかもしれません。

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2015/03/20

■節子への挽歌2744:インディアンたちは幸せだったに違いない

節子
昨日の映画を観て思ったことを、もう一度書きたいと思います。
しみじみと、深く思ったことです。

白人たちに滅ぼされていったアメリカのネイティブ(インディアン)たちと滅ぼす側の白人とは、どちらが幸せだったのか。
映画を観ていない人にはなかなか理解してもらえないと思いますが、この映画を観終わった時に感じたのは、インディアン側だったという確信です。
最近、かなり精神的にへこんでいて、気持ちが湿っぽくなっているためかもしれませんが、滅ぼす側よりも滅ぼされる側が幸せかもしれないと思えるのです。
そしてそれは、過去の話などでは全くなく、私の生き方につながる問題だと、時間がたつにつれて感じられるようになりました。
いや、インディアンたちが幸せだったのでなければいけないのです。
なぜなら、それが私の生き方に通じているような気がしたからです。

私が、あこがれている生き方は、どうも「インディアン・ライフ」のようです。
表現的には、まったく正反対のようにも見えますが、でも私があこがれているのは、こういう生き方なのだと、映画を観ていて感じました。
「ひ弱な」私には、インディアンのような見事な生き方はとてもできませんが、その生き方を目指すことはできるでしょう。
少なくとも、人や自然を信ずることくらいは、私にもできます。
しかし、改めて自省すれば、まだまだ信じ足りない自分に気づきます。
人を信ずればこそ、裏切られることはあっても、感動することもできる。
機械のように生きなくていいだけでも、白人よりもインディアンが豊かではないか。

間違いなく、滅ぼされたインディアンの方が豊かだったと思いたい。
しかし、歴史は豊かな生き方には加担しません。
なぜなら豊かさには動きが生まれにくいからです。
そして、いまの社会は、私にはとても豊かだとは思えません。

節子がいなくなってから、いろいろと考えることが多くなりました。
節子と話す時間がなくなったぶんだけ、自問自答が増えています。
応えてくれる相手がいないので、自分で考えなければいけない。
自問自答は、なかなか戻れないものです。
そう思うと、どんどんそんな気がしてくる。
だれも止めてはくれません。
だから娘からは「暴走している」と前にも注意されたのです。
娘たちには、私はいったいどう見えているのでしょうか。

もう一つ困っていることがあります。
思考は深まりますが、言動はむしろ飛散しがちなのです。
重荷を背負った心身を軽くするように、人に会うと、ついつい饒舌になり、言わずもがなのことを言ってしまう。
今日も、おふたりの人に会いましたが、勝手なことを話しすぎてしまい、いささかまた気が滅入っています。

まあこういう時は、何をやっても気が滅入る。
流れが反転するのを待たねばいけないのかもしれません。
しかし、節子がいなくなっていても、私は豊かなのかもしれません。
いや、そう思わなければやっていけないのかもしれません。

気が滅入っていると思考まで堂々巡りしだします。
今日はもう寝ましょう。

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■みなさんへの質問です

今朝のテレビで、茨城県の城里町の庁舎移転の様子を放映していました。
城里町の庁舎は、東日本大震災で大きな被害を受け、解体されていましたが、今年度、再建されました。
しかし、その建設工事費や備品購入費をめぐり、今年度の予算がなかなか成立せずに、前の町長が辞任。
昨年9月の町長選で、IT企業「楽天」出身の36歳の上遠野(かとうの)さんが町長に当選したのです。
そしてようやく完成した新庁舎に引っ越すことになったのです。

年度予算案では、新庁舎の備品代が1億3千万円、引っ越し費用が2千万円とされていました。
しかし、新町長はそれを節約しようと決めたのです。
まず備品に関しては、廃校となった学校などのイスや机、ロッカーなどを再利用することにし、ほとんど無償で550点の備品を入手。結局、約50万円に抑えたといいます。
引っ越し費用は、専門業者に頼むのをやめ、職員200人が休日出勤し、シルバー人材センターに登録する高齢者ボランティアにも手伝ってもらって、なんと300万円に抑えたのだそうです。

ある人はブログでこう書いています。

職員自ら荷物を運び、引っ越し代は2千万円から300万円に圧縮できたと朝日新聞が好意的に伝えていますが、これって人件費をカウントできない日本的な浅はかな考えですよね?
引っ越しのプロでもない高級取りの役人に引っ越しさせるより、プロにちゃっちゃとやらせたほうが結果的に安上がりなのは当たり前。
さて、みなさんはどうお考えでしょうか。
いまの社会のあり方や私たちの生き方を考える、たくさんのヒントが、ここには含まれているように思います。

私の考えは、明日、書かせてもらいます。
ぜひみなさんも少し考えてみてください。

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2015/03/19

■節子への挽歌2743:本当の人間の道を歩むこと

節子
先日、久しぶりに映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」を観ました。
ケビン・コスナーが監督・主演です。
もう20年以上前の映画ですが、いまなお新鮮です。
いささか長すぎると感じたのを覚えていましたが、今回は長さを感じませんでした。
あっという間の3時間でした。

観たことのない人のために言えば、これは異色の西部劇で、西部開拓の最前線に一人でやってきた騎兵隊員とスー族の交流を描いた映画ですが、ここに登場するスー族は、多くの西部劇に出てくるインディアンとは正反対に、極めて人間的に描かれています。

その映画の中で、スー族のリーダーの一人、「蹴る鳥」が、騎兵隊員だった「狼と踊る男」に語る、こんなセリフがあります。

この世で人の生きる道はいろいろあるが、
何よりも大事な事は、本当の人間の道を歩むことだ。
この映画の中で、まさにスー族たちは、「本当の人間の道」を歩いています。

私の好きなテレビ番組「小さな村の物語 イタリア」に出てくる人たちも、「本当の人間の道」を生きています。
だから、見ていてとてもあたたかくなると同時に、自らの生き方を反省させられるのですが、「本当の人間の道」を歩くことは、そう簡単なことではありません。
ですから、そうした生き方をしている人を見ると、感動してしまうのです。
そして、そのたびに思うのですが、私よりも節子の方が「本当の人間の道」を歩いていたこと、そして私は、節子と一緒に暮らすことによって、「本当の人間の道」に目覚めたのかもしれないということです。

昨日、書いた余命宣告を受けた神崎さんは、幸いなことに、この挽歌を読んでいないはずなので(彼はこういううじうじした文章が嫌いです)、書いてしまいますが、彼は、数少ない「本当の人間の道」を歩いている一人です。
余命宣告を受けたいまも、その言動は変わりません。
彼と話していて、それが伝わってきます。

私もまた、「本当の人間の道」を歩こうと、それなりに心がけています。
神崎さんとは、かなり対照的な生き方ですが、つながっているのは、その点です。
私たちは、どこかで暗黙のうちに、その相互理解があります。
だから、なぜか心が通じたのです。

しかし、私よりも若いくせに、先に逝くとは失礼な話ですが、それが、「本当の人間の道」を歩いてきた結果なのであれば、仕方ありません。
彼がそうであるように、悲しんだり、別れを惜しんだりするのは、やめようと思っています。
「本当の人間の道」を語り合う友が、いなくなるのは残念ですが、どう語りかけたらいいのか、思いもつかないのです。

何やらまた大きな課題を与えられたような気がします。
神崎さんにも、困ったものです。
節子もまた、困ったものでしたが。

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2015/03/18

■節子への挽歌2742:記憶の大海の中の孤島

節子
人はちょっとしたことが契機になって、昔の記憶をよみがえらせることがあります。
前にも「マドレーヌの回想」の話を書いたことがあります。
プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭にでてくる有名な話です。
記憶の世界は広く深く、意志によって呼び覚ます記憶は、ほんの一部です。
記憶はむしろ、私たちの意志の外にあります。
ですから、思ってもいないことで、あるいは思ってもいないタイミングで、記憶が想起されるのです。
フロイトは、記憶は意識によって、抑圧されて、無意識の世界に追いやられると言いましたが、「意識」というよりも「意志」の呪縛から抜け出るのが記憶ではないかと思います。
ただ、フロイトが言うように、「無意識には時間がない」ようです。

最近、続けざまに、その「マドレーヌ」に出会っています。
あまりに多いので、偶然とも思えないほどです。
そういう体験を続けていると、もしかしたら、人は記憶の大海の中の孤島に住んでいるのかもしれないという気になってきます。
そして、何かのはずみに、大波にさらわれて、記憶の大海の中に放り出されてしまう。
よほど泳ぎが達者でないと、おぼれかねない。
そして、もしかしたら、私は今、まさにおぼれかけているのかもしれない。

海でおぼれないコツは、むやみにもがかないことです。
もがけばもがくほど、記憶の大波は大きくなる。
逆に、静かにしていれば、人の身体は自然と浮いてくる。
波に身を任せれば、また島に連れて行ってくれる。
それはわかっているのですが、ついついもがきだすのも、また人なのです。

でもまあ、もがくのも少し疲れました。
そろそろ身を任せましょう。
記憶は意志によってはどうしようもなく、身を任せるしかないのですから。

今日はまた、ちょっとつらくて、みじめな1日でした。
春は来るようで、なかなか来ません。

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■18歳の若者に政治を任せられないと思っている人に

最近、私的にもあまり良いことがなく、いささかひがみっぽくなっています。
それでも時には感動的なことにも出会えます。
数日前に、テレビで見た感動的な言葉のことを忘れかけていました。
周辺の不快な事件の続発に、危うく忘れるところでした。
思い出して書いておきます。

東日本大震災の大津波で児童74人と教職員10人が亡くなった石巻市立大川小学校の被災校舎をめぐって、保存か解体かを決める地元住民による話し合いが行われています。
その話し合いの場で、友だちや妹を亡くした大川小の卒業生たちも参加し、保存を望む立場から、その思いを述べていました。
詳しい内容は、次のサイトをご覧ください。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/10/okawa-sho_n_6844410.html
発言の全文も次にあります。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/12/okawa-sho-graduates_n_5140512.html

卒業生の一人の只野哲也君が、最後に話していたことに、私は感動しました。
だいたいこんな内容だったと思います。

校舎を残してほしい。
しかし、残したくない人もいるでしょう。
その人たちの思いも大切にしたい。
だから私は、時間をかけて、みんなが残すことに合意できるまで、そういう人たちと話し合っていきたい。

表現はかなり違うでしょうが、こういう趣旨だったと思います。
つまり、多数決で決まったから校舎を残すのではなく、きちんとみんなが話し合って残していきたい、と明確に話したのです。
宮本常一の「忘れられた日本人」のなかにでてくる「対馬にて」の寄合を思い出します。
それは、日本における民主主義の実例として、以前はよく引用されたものですが、最近はあまり引用されなくなってしまいました。
これもまた、社会の変質のひとつの結果でしょう。
要旨は、次のサイトに少し説明されています。
http://www.k4.dion.ne.jp/~skipio/21essay2/Miyamoto-Tsuneichi-minzokugaku.htm

只野くんの知性のかけらさえなくなっている政治家たちに聴いてほしかった発言ですが、同時に、18歳から選挙権を与えることに疑念を持っている人たちにも聴いてほしい話です。
むしろ、投票権は、20歳未満にした方がいいのではないかとさえ、私には思えます。

子どもたちの感性と知性を信じなければいけません。
同時に、私たちは子どもたちの言動に耳と目を傾け、自らの心の中にある邪気のない子供時代の感性と理性を思い出さなければいけないと、痛感しました。

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2015/03/17

■節子への挽歌2741:自然は、必ず病気を治してくれます

節子
畑に行ってきました。
久しぶりです。
あまり体調も良くなかったのですが、身体を動かしたくて、鍬で少し耕しました。
すぐにへこたれてしまいました。
鎌で野草を刈り込みましたが、これもまたすぐにへこたれました。
土の上に座りこんで、少し風にあたりました。
今日の風はとてもあたたかでした。
身体を動かしたせいか、少しずつ身体があったかくなってきました。
しかし、まだ心身の芯は寒いままでした。

視野が狭くなっているようで、30分ほど作業していましたが、動物には出会えませんでした。
藪になっているところも、刈り込みましたが、蛇にも変えるにも出会いませんでした。
気のせいか、篠笹の勢いも弱まっていました。
ノビルがたくさん出ていましたが、無性に刈り取りたくなって、むやみやたらに鎌を入れてしまいました。
思い出して、道沿いの傾斜に植えた、チューリップを見たら、たくさん芽が出ていました。
あまりに無造作に植えたので、競い合っている感じで、花がきちんと咲くかどうかは不安です。
とまあ、こんな無意味な行動で、畑で1時間ほど過ごしてきました。
少し気持ちがおさまりました。

神崎さんにも、郷里に帰って、自然の中に浸るのがいいと伝えました。
人を病気にするのは「人間」です。
自然は、必ず病気を治してくれます。
死は、防げないとしても、です。
節子の看病の時には、まだそのことが、私にはわかっていませんでした。

神崎さんに奇跡が起こってほしいです。
彼もまた、奇跡が起こってもいい生き方をしてきたのですから。
節子の奇跡は、間に合いませんでしたが。
それを思い出して、また涙が出てきました。

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■節子への挽歌2740:神崎さんからの電話

節子
相変わらず挽歌が書けません。
時評編はお誘いを中心に少しずつ書き出しましたが、挽歌がまだ復活できません。
なぜでしょうか。
もちろん理由などはなく、ただ書けないだけですが。

本人がすでに自分のブログやフェイスブックで公言しているので、実名で書きますが、友人の神崎さんが余命宣告を受けました。
http://blog.goo.ne.jp/kurara_77

もう3か月を切っています。
その知らせの電話を神崎さんから受けてから、どうも何かが変わってしまいました。
神崎さんは手術も終え、いまは自宅で療養です。
私は、見舞いにも行かず、電話もメールをしていません。
何と言えばいいのか、なんと書けばいいのか。
彼の目をしっかり見ながら話せるかどうか。
しかし頭から離れたことはありません。

その神崎さんから電話がありました。
全くいつものように、屈託のない話しぶりですが、いつもとは違います。
話の内容は書くのをやめますが、私が神崎さんに伝えようかと思っていた通りの決断をしたようです。
長い電話でしたが、私は今回もうまく受け答えができませんでした。
そのうえ、神崎さんは自分のことよりも私のトラブルに関する心配をしてくれていました。
そして、電話で、佐藤さんは頼りないから心配だよというのです。
すっかり見透かされてしまっています。
まあ、しかし神崎さんに言われるほど、頼りなくもないのですが。
電話を横で聞いている人がいたら、私が余命宣告を受けたのだと思ったかもしれません。

神崎さんと出会ったのは、節子がいなくなってからです。
ですからまだそう長い付き合いではありません。
ですが、なぜか神崎さんとはどこか通ずるものがありました。
神崎さんと話していると、節子とのことをなぜか思い出すのです。
神崎さんは、「余命宣告」を受けた時に、残された時間でいろんな人にあいさつができるから交通事故での突然死よりも幸せだとブログに書いています。
私も、そんなことを、この挽歌に書いたことがあります。
しかし、どちらが幸せかは、いまの私にはわからなくなってしまいました。

神崎さんとの電話の後、また心身が動かなくなってしまいました。
しばらくして、畑に行って、少し回復してきましたが。
今日は暖かな日ですが、なぜか心身が震えるほどに寒いです。

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■ニムルド遺跡と辺野古の海

前のブログ記事をアップした直後に、メールが来ました。
まさかと思う人からのメールです。
そこに、こう書かれていました。
「何時も襟を正して!!!!読ませて頂いております。」
え! あの人が! とさらに驚きました。

人間は単純なものです。
このメールで、ブログを書く気が出てきました。
少しずつ再開していきますが、今日は、辺野古のことです。
というのは、先のメールをくださった方が、こう書かれていたからです。
鳩山由紀夫さんのことを書いたブログ記事へのコメントです。

今回の「鳩山由紀夫」に関する文面は目から鱗のもやもやが晴れた思いでした。
今般の沖縄知事の動きもあの首相時代の鳩山さんの活動の流れにあると思っています。
駄目なものはダメと言って良いのだ。言うべきだと。
そして私たち一人一人が沖縄の基地を少しは考えるべきだと。
「イスラム国」がメソポタミアのニルムド遺跡などを破壊しているようです。
ニムルドの遺跡は、私の憧れですので、実に悲しい話です。
博物館のアッカドの彫刻などが壊される様子が放映されていましたが、やりきれない気持ちです。
こうした遺跡は、一度壊されたら、もう回復はできません。
遺跡よりも現在の暮らしが大切だという考えもわからないではありませんが、壊すことはないだろうと思います。
壊したらもう戻らないものもあるのです。
「イスラム国」の行動への、いささかの理解を、私は維持したいと思っていましたが、この映像を見て諦めました。
世の中には、壊してはいけないものもあるのです。

さて辺野古のことです。
基地建設の工事が始まりました。
住民の代表である知事とも会おうともせず、住民反対を無視した、力に任せての暴挙です。
長い歴史の中で育てられてきた美しい海が壊れだすのは、時間の問題です。

「イスラム国」の暴挙と、安倍政権の暴挙と、どう違うのか。
しかも、ニムルド遺跡よりも、辺野古の海の方が、もっと根源的な意味を持っているかもしれません。
ニムルド遺跡は過去を穢すことですが、辺野古の海は未来を穢すことなのです。
忌まわしさは、どちらにより多いか。
私には、もちろん後者の方が、より罪深い行為に感じます。
その動機においても、です。

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■最近滅入っている理由

以前、ブログで「誠実な生き方」に関して書いたことがあります。
それを読んだ読者から、こんなメールをもらいました。

「誠」の漢字は、「言」(ものをいうこと)と「成」(なすこと)とからなっています。すなわち、「言を成すこと」。これに「実」(まごころ)がついて、「誠実」。
したがって、誠実:(他人や仕事に対して)まじめで真心がこもっていること、というような辞書に書かれている意味になる、ということが、この歳になってようやく分かりました。お恥ずかしい限りです。
私も、「誠」が「言を成すこと」だという認識はありませんでした。
納得できました。

私は「言葉」を大事にしているつもりです。
言葉にしたことは、基本的に実行しています。
自分で発言した言葉には責任を持つようにしています。
その結果、時に不本意な重荷を背負うこともありますが、言葉は多義的ですから、仕方がありません。
武士や経営者が寡黙な理由は、よくわかります。
私も、できるだけ口を慎むべきですが、それができない性格です。
根が武士ではないからでしょう。

最近、これまでになく滅入っている理由は、もしかしたら、こうしたことに関係しているかもしれません。
それで、冒頭に引用した読者のメールを思い出したのです。

「誠」にはまた、相手の「言」を信ずることも含まれるように思います。
自ら「言を成すこと」のであれば、相手の「言を成すこと」もまた信じなければいけません。
つまり、「言を信ずること」、そして「言によって生きること」こそが、私にとっての「誠な生き方」です。
もちろん、その「言」とは、意味のない音符ではありません。
言葉に「いのち」を吹き込むことがなければいけません。

最近、言葉だけの人がまた増えているように思います。
企業の経営管理者たちと話していると、実体のない言葉があふれています。
議論しているようで全く議論がなされていない状況によく出会います。
恐ろしいことに、それでも成り立つ世界が広がっています。
政治の世界も、まさにそうなりつつあります。

「言を成すこと」のであれば、「言」に意味を与えなければいけません。
言葉には「意符」と「音符」のふたつの側面がありますが、両者があってこそ、「言が成る」からです。
音符だけの言葉づかいの人は、決して「誠の人」にはなれないでしょう。
最近は、「誠のない人」が増えてきました。

しかし、と、さらに思います。
まわりに「誠のない人」が増えているのは、私自らが「誠のない人」になってしまったからではないのか。
そう思うと、納得できることが少なくありません。
私自身が、「誠の生き方」をしていないことに気づきます。
世界は、まさに自分が写っている鏡です。

だから、ますます滅入ってしまい、ブログが書けないのです。
不幸の理由がわかったからといって、不幸から抜け出せるわけではありません。
むしろますます不幸になっていく。
そんな気分です。
困ったものです。

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2015/03/15

■食養をテーマにしたコムケアサロンのお誘い

お誘いが続いていますが、もうひとつ。

食は文化の基本ともいえる、食をテーマにしたサロンを開催します。
食のテーマから私たちの今の生き方を考える場にしたいと思います。
テーマは「自分自身へのおもてなし食養(マクロビオティックス) 」。
話題提供者は、その分野に造詣の深い栗原さんと林さんです。

介護や子育てなどの活動においては、食の問題は非常に重要ですが、そもそも自らのケアという意味でも、食はもっとしっかりと考えられる必要があります。
いまさらながらではりますが、久しぶりに食をテーマにしたサロンです。
と言っても、ただ単に「食」の問題に限ったわけではありません。

「マクロビオティックス(食養)」に関しては、ご存知の方も多いと思いますが、提唱者の桜沢如一さんの視野はもっと広く深いものでした。
それは「平和」や「大きな福祉」につながるものです。
さらにいえば、そこでは原子転換理論も示唆されています。
放射線汚染に関するヒントさえも、そこにあるかもしれないと、私は考えています。
まあ、今回はそこまでの議論にはならないと思いますが。

長年、食養の考えを実践してきた栗原さんと林さんは、食養の理念が、「だれもが心地よく生きられる社会」に深くつながっているのではないかというお考えから、食養の考えを広く社会に広げていきたいと考えています。
食のありかたは、個人の心身に大きく影響を与えるばかりでなく、その人の生き方や人間関係、さらには社会のあり方にも大きく関わっているというのが、おふたりのお考えです。
最近の、いささか壊れつつある社会のあり方や私たちの生き方を考えると、私もまったく同感です。

そんなわけで、今回はおふたりから、「食養」の理念をお聞きし、食とケアの話ができればと思っています。
同時に、栗原さんと林さんの活動にも、みんなでアドバイスできればと考えています。

当日は、玄米おむすびと番茶も用意される予定です。
いつもとは違ったコムケアサロンになればと思っています。
みなさんのご参加をお待ちいたします。

○日時:2015年3月27日(金曜日)6時30分~9時
○場所:湯島コムケアセンター
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○テーマ:「自分自身へのおもてなし食養(マクロビオティックス) 」
○話題提供者:栗原さんと林さん(食養実践者)
○会費:500円
○参加申込先:comcare@nifty.com

玄米おにぎりの用意がありますので、参加者は事前にお申し込みください。

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2015/03/14

■私が尊敬する政治家は鳩山由紀夫さんです

鳩山由紀夫元総理が、クリミアを訪問し、物議をかもしています。
ほとんどの人が、鳩山さんの行動を非難し、実弟さえからも「日本人ではない」と非難されています。
もっとも、「日本人ではない」というのが、非難か褒め言葉かは微妙ですが。
政治家は口をそろえて、国益に反する、世界の平和に反すると言います。
そういう面が、確かにあるかもしれません。

そういえば、鳩山さんは首相時代に沖縄基地問題でも非難されました。
自らが代表を務める民主党の仲間からも裏切られ、官僚の餌食になりました。
あの時も、多くの人は鳩山さんを責めました。

私は、平成になってからの一番尊敬する政治家と訊かれれば、躊躇なく「鳩山由紀夫」と答えます。
彼ほど、政治の原点に返って考えた政治家はいないと思うのです。
それに、現実も変えました。
鳩山さんの沖縄基地発言のおかげで、沖縄の人たちは意識を変えたはずです。
国益ではなく、国民益で考える政治家だと、私は思いました。
少なくとも、彼は「考える政治家」です。
主体性がある。そう思います。

ですから、今回のクリミア訪問も私は、そこに意味を感じます。
少なくとも、鳩山さんには、だれであろうと耳を傾ける姿勢がある。
お金や地位や私情のために生きている多くの政治家とは違うように思えるのです。
もう15年ほど前ですが、私が事務局長をやっていたリンカーンクラブの総会に鳩山さんを呼びました。
その時、話し合いの進行役だったのですが、鳩山さんが参加者の声に誠実に耳を傾けていたことがとても印象的でした。
私の誤解かもしれませんが、鳩山さんは「友愛」を信条にしていると感じました。
当時は、まだ鳩山さんは「友愛政治」という言葉を使っていませんでしたが。
他の政治家とは、明らかに雰囲気が違ったのを覚えています。

今回のクリミア訪問の意味は私にもよくわかりません。
しかし、問題の解決のカギは現場にある、という私の信条から言えば、とても共感できる行動です。
現場に行かずに何がわかるのか。
沖縄県知事に会おうとせずに、沖縄の統治を進めている現政権との違いを感じます。
余計なことを書き加えれば、沖縄県知事に会わずに、新たな基地建設を進めている安倍政権が、自らは戦地にいかずに戦争を手段に持ちたいという方向に進んでいることは、当然かもしれません。

鳩山由紀夫さんを尊敬するなどというと、たぶん多くの人からひんしゅくを買うことでしょう。
もしかしたら、また「死ね!」などというメールも届くでしょう。
日本の社会は、すでにそんな時代になってきているのが恐ろしいです。

しかし、私は鳩山由紀夫さんがなぜか好きなのです。
もちろん個人的な面識は一切ありませんが。

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■戦争反対カフェのお誘い

最近の社会状況にはかなり危ういものを感じている方は少なくないと思います。
特に気になるのが、政治とマスコミです。
さらには、私も含めて、私たちの生き方も気になります。
日本が戦争に向かった80年前と似てきているのではないかという人も少なくありません。
私自身、そう思っていて、時代の行く末に不気味さを感じています。
今のままでいいのだろうかと思うのですが、どう動けばいいのかの妙案も見つかりません。

そんな話を友人たちと話していたら、もっと現実を共有していくことが大切ではないかという話になりました。
たしかに、私たちは現実の動きをあまりにも知らなすぎます。
マスコミの報道は、現実のほんの一面でしかありません。
現実をもっと知ることができれば、この流れに異議申し立てするエネルギーも高まるかもしれません。
与えられた情報で生きるのではなく、生きるための情報を求めていかねばいけません。

そこで、極めて短絡的なのでが、問題をわかりやすくするために、「戦争反対サロン」を立ち上げることにしました。
かといって、デモ行進や抗議イベントをしようなどと考えているわけではありません。
まずは、自分が今どんな状況の中にいるのかを認識していこうということです。

毎月、最初の日曜日の午後に、テーマと問題提起者を呼んで開催しますが、サロンなので、参加者の話し合いを中心にしたいと思います。
第1回目は、4月5日ですが、「自民党憲法改正案」をテーマにします。
この改正案の行く先に、戦争が見えてくるからです。
問題提起者は、長年、直接民主主義の実現に向けての活動をしてきた武田文彦さんです。
憲法に関する著書もあり、また現在は雑誌「ベルダ」で独自の政治論を連載しています。

社会の先行きに危惧の念をお持ちの方、あるいはそうでない方、いずれの方も大歓迎です。
喧嘩にならない程度の論争ができればうれしいですが、そうでなくても、自民党憲法改正案への理解を深める人が一人でも増えるだけでも、社会は変わりだすはずです。

みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2015年4月5日(日曜日)午後2時~4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://homepage2.nifty.com/CWS/cws-map.pdf
○会費:500円
○テーマ:自民党憲法改正案を考える
○問題提起者:武田文彦(究極的民主主義研究所所長)
○参加申込み先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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2015/03/10

■節子への挽歌2739:今年は河津桜が咲きました

節子
今日、気づいたのですが、庭の河津桜が今年は咲きました。
一昨年は手入れ不足で、枯れそうになってしまい、花どころではなかったのですが、何とか持ち直しました。
地植えではなく、大きな鉢に育てているのですが、そのため、きちんと水をやらないと弱ってしまうのです。
まだ元気とは言えず、頼りない咲き方ですが、咲いてくれたことに感謝しなければいけません。
河津の桜はもう満開で、にぎわっていることでしょう。
わが家の桜は見る人も少ないので、かわいそうです。

人は、さびしさを知ると、他者のさびしさにも気がいきます。
その対象は、決して人ばかりではありません。
山川草木、すべて、寂しさを感じていることが、少し実感できるようになるのです。

自分に余裕がないと、庭の花への関心もでてきません。
おそらく咲いたのは今日ではないでしょう。
数日前から咲いていたのに、誰も気づかなかった。
余裕のない暮らしをしていると、こんなものでしょうか。
余裕のなさのために、よいことにも気づかず、ますます余裕をなくしていくのでしょう。
反省して、今日は、庭に出て、花々に声をかけ、咲いている水仙を節子に供えました。
畑まで行けば、チューリップも咲いているかもしれません。

河津桜も一輪供えようと思いましたが、やめました。
一輪さえもが貴重なほどの、頼りない咲きっぷりですので、
少ない仲間から一輪だけを引き離すことができませんでした。

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■保険が開くのは平和か戦争か

7日に開催した共済研究会シンポジウムでの感じたことをもう一つ書きます。
いささか過剰に思考を広げた論考ですが。
保険も共済も、自分の仕事をしっかりすべきだとパネリストのおひとりが発言されたことに関連して、思ったことです。
ちなみに、その方の発言にはほぼ完全に共感したうえでの勝手な思いです。

シンポジウムの基調講演で、本間さんは、資本主義はふたたび「戦争への道」に向かっているのではないかと話され、巨大化する保険も、そしてそれに同化しつつある共済も、同じ方向を向いているのではないかと、指摘されました。
そして、そのあとのパネルディスカッションで、大阪損保革新懇世話人の松浦さんが、品川正治さんの「損保はブレーキ産業」だという言葉を紹介しました。
資本主義の暴走を止め、危険を回避する役割が保険にはあるというのです。
品川さんの言葉は、私も保険の意味を考え直す契機になった言葉ですので、その言葉を松浦さんが持ち出したことに共感しました。

しかし、そこで、余計な発言をしてしまいました。
最近の原発再稼働や集団自衛権の動きを思い出してしまったのです。
そこで、この「ブレーキ産業」と「戦争産業」との関係をおふたりに質問させてもらいました。
おふたりからは的確なお答えをもらいましたが、参加者には伝わったでしょうか。
いささか心もとない気がしました。

私の考えはこうです。
もし損害保険業界がしっかりしていたら、原発産業はこれほど広がらなかったといことです。
だれもが知っているように、原発事故は単なる確率論的な計算では考えられません。
保険技術の基本にある「大数の法則」になじまないからです。
ですから再保険の引き受け手はなく、営利保険では対応できずに、国家が引き受けることになります。
しかし、国家とて原発事故には対応できません。
それは今回の福島の事故でだれの目にも明らかになった通りです。
ですから「安全神話」が生み出され、万一、事故が起こった時には、「想定外処理」されることになるわけです。

損保業界が、もし品川さんの言うように、ブレーキ役をミッションとするのであれば、原発事故の持つ意味をきちんと社会に公開し、社会に働きかけるべきでした。
しかし、残念ながら事態は逆を向きました。
中途半端な保険対応により、原発産業はむしろ勢いがついたのです。
そして、福島事故が起こった後も、国家による原子力損害賠償は、原発再稼働を支持し、加速される方向で、事業者保護に向かっています。
これに関しては、本間さんが厳しく指摘していますが、ほとんどの専門家は関心を持ちません。

損害保険産業は、私にはまさに戦争産業に向かっているように思います。
しかし、それは損害保険だけではありません。
保険そのものが、いまや「平和」や「安心」に背を向けだしたように思えてなりません。
私の間違いだといいのです。

メルケル首相と安倍首相が並んで記者会見している姿を見て、思い出したので、書きました。
まだブログがなかなか書けずにいます。

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2015/03/08

■節子への挽歌2738:親身に話し合う関係

節子
気になると気になって仕方がないことがあります。
最近はいささか過剰に敏感になっているのかもしれません。

昨日、携帯に「会いたい」という電話がありました。
電車の中だったので、1時間後に電話してと伝えたのですが、そのあと、すぐにシンポジウムに参加してしまい、失念してしまっていました。
夜に、電話がなかったことに気づきました。
朝、起きてすぐに電話しましたが、電話もメールもつながりません。
その前に会った時に、少し不安な言葉をぽろっとつぶやいたのが気になっていたのです。
最近は、私自身が精神的に不安定なので、他者に過剰に同調しがちなのです。
こういう時には、誰にも相談できません。
つくづくと、他者に関わることの重さを感じます。
中途半端にかかわるのが一番悪いということは、私もわかっているのですが。

落ち着かない時間を過ごしていました。
なにも手につかないのです。
お昼頃、メールが届きました。

京都のお寺で参禅し、気持ちが落ち着いたとありました。
ホッとしました。
と同時に、私こそ参禅したほうがよさそうだと思いました。
彼も、あまり親身に話し合う友人や家族がいなのでしょうが、考えてみると、私も同じような状況です。
座禅によって、「親身に話し合う」ことのできる、もう一人の自分に会えるでしょう。

親身に話し合う関係というのは、なかなかそう簡単には構築できません。
夫婦というのは、まさに「親身に話し合う関係」であることに大きな価値があるのだと、痛感します。
節子がいたおかげで、あるいはいたために、私はこれまでまだ一度も座禅を組んだことがありません。
座禅で、節子に会えるかもしれません。
自宅でも座線を組むことはできそうです。

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■保険の社会化は「保険の消滅」をもたらす

昨日、共済研究会のシンポジウムでした。
そこにパネリストの一人として参加させてもらいました。
共済研究会は、「共済の歴史や文化を学び合うとともに、協同組合共済や自主共済、助け合い活動について、研究・交流するため」に、2006年5月に発足した個人の自主研究会です。
私も、友人に誘われて、しばらく参加していました。
私が共済の興味を持った経緯は、ホームページに以前書きました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudo06.htm#0621
会を抜けた経緯も、たぶんどこかに書いています。

今回のシンポジウムの全記録は「賃金と社会保障」という雑誌に収録されます。
それを踏まえて、私の10分間のキースピーチは、ともかく雑誌に記録してほしくて、盛りだくさんの内容にしてしまいました。
ともかくキーワードを話しておけば、雑誌に収録されるときに補足説明しても嘘にはならないからです。
しかし、盛り込みすぎて、うまく話ができずに昨日は落ち込みました。
それに早口だったので、あまり伝わらなかったでしょう。

説明しませんでしたが、配布したレジメに、共済の目指すところは共済事業の消滅だと書きました。
私は、ビジネスの究極的な目標は「自己消滅」だと考えています。
近代の産業の論理は、「自己増殖」ですが、それでは社会はよくなりようがありません。
私が「近代産業のジレンマ」と呼んでいる現象です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message14.htm
制度がもし、社会の不都合を正すためのものなら、当然、不都合をなくすことに注力すべきだからです。
不安があるから「保険」や「共済」が求められるのですが、不安がなくなれば、つまりみんなが助け合い支え合う社会であれば、保険も共済もいらないのです。
このことに、実は制度やビジネスの本質が垣間見えますが、誰もそんなことは考えもしません。
私には、それが不思議でなりません。
ただ、私の考えだと経済成長も事業拡大も否定されかねません。
もちろん私はそうは考えていませんが、説明しだすと長くなりそうなのでやめます。
関心のある方は湯島にお越しください。

このレジメをまとめた後に知ったのですが、80年ほど前に「保険の社会かは保険の消滅」と書いていた人がいました。
小林北一郎という人です。
青山学院大学教授の本間さん(今回のシンポジウムの企画者です)が40年前に出版した「社会科学としての保険論」に紹介されています。
本間さんは、今回のシンポジウムの基調講演でも、そのことを紹介されました。

保険の社会化は保険の消滅。
ここには資本主義経済社会を超えていくヒントが含まれています。
自己消滅か自己増殖か。
自己消滅は言い換えれば新しい自己創出です。
私には、気づきの多いシンポジウムでした。

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2015/03/07

■節子への挽歌2737:負い目

節子
ブログを更新していなかったために心配してくれていた人がいて、再開したらホッとしたというメールが何通か届きました。
気にしていて下さる人がいることに感謝しなければいけません。

昨日、福岡の蔵田さんから恒例のアサリが届きました。
ご自身で海岸まで出かけてとってきてくださるのです。
この寒い中を、私よりも年上なのに、出かけて行ってくれるのです。
このアサリがとてもおいしいのは、蔵田さんのお気持ちが深く入っているからです。

蔵田さんは、会社を定年で辞められると関係会社などへの誘いもすべて断って、奥様と一緒に郷里に帰りました。
そこで、畑をやったり海に出かけたり、自然の中で豊かに暮らされています。
しかし、隠居ではありません。
ここでも書いたことがありますが、川柳にはまったり、あるいは地域活動に関わったり、社会活動も楽しまれています。
昨日電話したら、奥さんが最近家族が増えたと言います。
自動車のボンネットに捨て猫がいたので、それを飼うことにしたのだそうです。
名前は「ぼん」。
ボンネットからの命名でしょう。
いかにも蔵田さんらしい名づけ方です。

なかなか福岡に行く機会がなく、ここ数年、お会いしていませんが、ますますお元気のご様子です。
蔵田さんには長年お世話になりっぱなしですが、現世でお返しすることは無理でしょう。
しかしまあ、来世もあるので、いつもそのご厚意は素直に受けています。

電話では時々お話しますが、私は蔵田さんの奥様にお会いしたことがありません。
しかし、蔵田さんとの暮らしぶりは、なんとなく伝わってきます。
節子がいたら、おそらく2人で蔵田家にも訪問していたことでしょう。
1人になると、その勇気はなかなか出てきません。

人がどう生きてきたかは、高齢になってから現れてくるのかもしれません。
私のまわりにもたくさんの幸せな夫婦がいますが、その人たちの生き方を考えるととても納得できます。
私が今、こうして伴侶を失い、幸せとは言いにくい状況にあるのは、やはり私の生き方の結果なのでしょう。
最近、そのことがようやくわかってきました。
節子を幸せにしてやれなかったことの負い目から、どうしても抜け出せません。
時間が過ぎるにつれて、ますます負い目が重くなってくるのです。

やはりどうも明るい挽歌が書けません。
困ったものです。

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2015/03/06

■節子への挽歌2736:強くて弱い生命力

節子
久しぶりに湯島に来ました。
うっかりランタナの鉢をベランダに出し忘れていたのですが、寒さでやられていました。
1か月ほど前には、わが家から挿し木していった小さなランタナを、水をやり忘れて、枯らしてしまったので、このランタナは枯らしたくないと思っていました。
少し大きめの鉢にしっかりと根付いたランタナは外に出しておいても大丈夫だったので、気を許してしまいました。
ランタナは渇きには弱いのですが、寒さにも弱そうです。
今回はまだ完全には枯れていないので、復活してくれるかもしれません。

しかし、植物の生命力は、強いのか弱いのか、よくわかりません。

娘が正月用の生け花に、白く塗られた装飾用の枝を添えていました。
生け花が枯れた後、それを小さな花ざしにいれておいたら、なんと最近、そこから若葉が出てきたのです。
そして、次第に根までつくられてきました。
ものすごい生命力を感じます。

Megadeta

しかし、その一方で、ちょっとした渇きや寒さでもいのち尽きることもあります。
節子がいなくなってから、たくさんの植物を枯らしてしまいましたが、それこそちょっとした油断からです。
実はわが家でも新しい色のランタナの挿し木を大事に育てていましたが、わずか2日ほど水やりを忘れただけで枯れてしまいました。
2日くらい我慢しろよと思いますが、それは勝手な言い分です。
それから毎朝声をかけながら水やりをしたのですが、復活しませんでした。

もろくて強く、強くてもろいのが、いのちなのかもしれません。
湯島には、先日、新潟の金田さんかもらったチューリップの花を数本持ってきていました。
枯れずに頑張っていた3本を、花瓶に入れてテーブルの上に残しておきました。
もう枯れて花が落ちているだろうと思っていたのですが、なんとまだ2本ががんばっていました。
感激して水を入れかえようと思って、花瓶を持ち上げたら、元気そうだった紫色のチューリップが一挙に花びらを落としました。
まるで私に見せてから散ったような感じです。
花にもしっかりと意識がある、改めてそう思いました。
最後の一輪はまだ元気そうです。
今度来る時まで元気でいるでしょうか。
あまり湯島を留守にしてはいけませんね。


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2015/03/05

■「自殺者3万人の社会で生きる」を大きなテーマにした学生たちの話し合いのご案内

時々書き込むように、自殺に追い込まれることのない社会を目指してのささやかな活動に取り組んでいます。
テーマに沿ったラウンドテーブルセッションも続けていますが、今度は「自殺者3万人の社会で生きる」を大きなテーマにした、学生たちの話し合いの場を開催することになりました。
大学の講師をされている先生とその生徒たちが実行委員になって、昨年末から準備を進めてきましたが、開催内容が決まりましたので、ご案内いたします。

主な対象は大学生を中心にした若い世代にしていますが、高校生にも呼びかけられればと思っています。
またこの問題に関心のある方であれば、年齢にこだわらずに参加歓迎です。
ただし、あくまでも話し合いの中心は若い世代の人たちにする予定です。
若い世代の人たちにこそ、こうした問題に関して話し合ってほしいと思っています。
そして、若い世代から、私たち大人はもっと学ばなければいけないと思います。

単発の集まりにせずに、秋には2回目の集まりを開催する予定で、そのためのゆるやかなネットワークづくりも考えています。
そういう場で、政治や経済、さらには歴史や文化の問題を話し合っていければと考えています。

ところが春休みであることもあって、なかなか学生のみなさんへの案内が届きにくく、参加者集めに苦戦しています。
みなさんのまわりに若い世代の人たちにぜひご案内ください。
ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

〔日時〕2015年3月28日(土曜日) 午後1時30分~4時
〔会場〕青山学院大学(青山キャンパス) 17号館8階17810教室
http://www.aoyamabs.jp/access.html
〔プログラム〕
○映画『自殺者1万人を救う戦い』(レネ・ダイグナン制作:52分)をみんなで観る。
○映画を材料にした参加者の話し合い
○こうした問題に対して何ができるかを考える
〔参加費〕無料
〔主催〕「大学生がいまを語り合う」フォーラム実行委員会(委員長:楠秀樹)
〔事務局〕コミュニティケア活動支援センター
参加申し込みは以下に、メールしてください。
comcare@nifty.com

詳しい内容は下記をご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/gakusei.pdf

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■節子への挽歌2735:世界が非連続なのか、私自身が非連続なのか

節子
再開最初の挽歌です。

この1週間に数冊の本を読みましたが、そのひとつが「ケアの始まる場所」という論考集でした。
その中に「死者のケア」という論考がありました。
そこにこんな記載がありました。

死者は「いない」というあり方,すなわち「不在」というあり方で存在し続けているのである。
私たちがその内で現に存在する世界とは,「生前の死者とかつて共にあった世界」であり,「今は亡き死者と共にある世界」なのである。
そうであればこそ,たとえ死者が不在となったとしても,その世界の側から(世界の内にある事物やその人の痕跡を通して)死者になったその人を偲ぶことが可能となる。

こんなややこしい表現などしなくてもいいではないかと思われるかもしれませんが、こういう言葉に奇妙に心が安堵するのです。
しかし、気になることもあります。
「生前の死者とかつて共にあった世界」と「今は亡き死者と共にある世界」とは連続しているのかどうか。
私にはどうも連続していないような気がします。
世界はその人の意識が創り出しているはずです。
ですから、自らの一部が喪失するような体験をしてしまった以上、世界は非連続になっても仕方がありません。
つまり、世界が非連続なのは、私自身が非連続な存在だということにもなります。
世界と自己とは、どちらが因でどちらが果かも明確ではありません。

この本は、そうしたことを考えさせられる様々な示唆に満ちている本でした。
明日からはまたきちんと挽歌を書くようにしようと思います。
新聞やテレビの報道番組も見ようと思います。

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■節子への挽歌2734:1週間のご無沙汰でした

節子
1週間、挽歌も時評も書きませんでした。
挽歌を書き始めてから1週間も書かなかったのは初めで、番号も10回ほどずれてしまいました。
いろんなことが起きて、頭が回らなくなったのですが、同時に体調もあまり良くなく、お腹がしくしくと痛かったり、首が回らなくなったり、頭が重かったり、無性に眠かったり、身体にまで不具合が出てきています。
気が滅入っている時には、どんどん悪いほうに考えがちです。
いやもしかしたら、このままダウンしたいという無意識の願望があるのかもしれません。

もちろん悪いことばかりではなく、うれしい話もあったのですが、この間、かなり自宅に引きこもりがちでした。
私の場合、仕事をしなければいけない時にはむしろ自宅に引きこもるのですが、今回に限って言えば、仕事をするためというよりも、逃避的な意味合いが強いです。
しかし、中途半端にいろいろと動き出したこともあって、パソコンに向かうとやらなければいけないことが押し寄せてきます。
無視すればいいだけの話ですが、どうもそれができずに、余計なお世話に時間を割いてしまうのです。

ですからパソコンも開かず、ブログもお休みというのもあるのですが、西部劇のセリフではありませんが、一度、逃げてしまうと逃げ続けることになり、たぶん元には戻れなくなります。
それは避けたいと思います。
挽歌を書かなくなれば、たぶん生きる気力はさらに低下するでしょう。
そろそろ立ち直らなければいけません。
今日は本当は、時間をとって畑に行くつもりだったのですが、急用ができてしまい、行くタイミングを失してしまいました。
土にも癒してもらえませんでした。

時評も書けずにいますが、最近ニュースを見たくなくなったのです。
テレビをつけると、18歳の少年が・・・という言葉ばかり耳に入ります。
もうあのニュースは見たくないのです。
18歳の少年を追い込んだ人たちは気づいていないでしょうが、あのニュースを無神経に流し続ける大人たちの方が狂っているとしか思えません。
そういう狂った社会を相手に時評を書いても、ただただ虚しいだけだからです。

最近、自分の居場所が見つからないのです。
節子に助けてほしいです。

とまあ、愚痴をこぼしてしまいましたが、教からブログを復活させようと思います。

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