■節子への挽歌2753:自らの死期はわかるものだろうか
節子
昨日は「食養」をテーマにしたサロンでした。
手づくりの玄米おにぎりを食べながら、もし私たちにもう少しこうした分野の知識があれば、節子の人生も変わったかもしれないと、そんな思いを持ちながら、話を聴いていました。
節子を守れなかったことへの思いは、なかなか捨てられるものではありません。
食養に長年取り組んでいる栗原さんは、人には親からもらった強い身体を持っている人もいるというようなこともお話になりました。
私も、もしかしたら、そうかもしれません。
もうそろそろ現世はいいかと思いながらも、死ぬ気配を感じません。
私が目指す、言行一致にはならないのです。
困ったものですが、こればかりは仕方ありません。
健康や身体への注意はほとんどないのですが、節子が逝ってしまってからは、むしろ身体的には元気になってきています。
もちろんいろんなところに変調はきたしていますが、生命につながるような意識はありません。
参加者の太田さんが、人は死を予知できるのだろうかという話をしました。
昔の人は良く自らの死を悟ったという話がありますが、最近はさまざまな医療的・薬学的支援の中で、自らの死を意識できなくなってきているのではないかという話です。
太田さんの話は、いつも実に示唆に富んでいます。
その発言を聞きながら、私はここでも節子のことを思い出しました。
節子はたぶん自らの死を意識していたことでしょう。
あるいは、もしかしたら、自らの死を体験していたかもしれない、そんな気がしています。
死を予知した人は、強くなれるのでしょう。
私はどうでしょうか。
たぶん、その時になったら、自らの死を予知できるのではないかと思っています。
これまでも、もしかしたら死につながっているかもしれないと予感したことはあります。
しかし、それは頭で感じただけで、いつも間違いでした。
しかし、本当の死期というものは、心身を素直にもてば、予知できるような気がしています。
できればそういうようになりたいと思っています。
サロンの前後に、またいささかショッキングの話がおふたりから聞かされました。
朝に見た、朝ドラ「まっさん」の影響か、今日もまたなんとなく感傷的な日になりました。
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